第一章 移し身の鏡


 枯葉が落ちるように水の中を揺れながら、一枚の鏡が沈んでいきました。
静かな洞窟の暗闇の底で、それは青く鈍く光をたたえます。
そして鏡面から光る砂のようなものが静かにこぼれ出し、それはゆっくりと水の中に漂い広がっていきました。
 少年の悲鳴に似た叫びが洞窟の中にこだまします…。

 伝承によれば、昔々、とある平和な街に、どこからともなく真っ赤なドラゴンが降り立ち、殺戮と略奪の限りを尽くしたということです。ドラゴンは仲間を呼び寄せ、人々は逃げ惑うばかりでした。
 そこに『鏡の主』と呼ばれる魔法使いが招かれ、その怪物を退治したのであります。
 しかしそのドラゴンというのは不死身の体を持っていたので、さしもの魔法使いも打ち倒すことが出来ず、やむなく鏡の中に封じ込められていると言われておりました。
 そしてその鏡は、二度とドラゴンが蘇る事のないよう、祠の中に祭られました。
 しかし、それも百年経ち、二百年経ちすると、戦乱の記憶はぷっつりと途絶え、鏡の置かれた祠は、生い茂った木々に囲まれて訪れる人もなく、村のそばにひっそりと放って置かれるようになります。そして、かの鏡の主の子孫である魔法使いだけが、その管理をしておりました。

 そんなある年、その祠のある木隠れ谷という渓谷のちっぽけな村で、ルルトという少年が生まれます。
 そしてルルトはやがて、とび色の髪の、目のくりくりした男の子に成長していきました。
 見たところ、彼は温和で、利発的な子供のように思えます。
 ところが、これがまったくとんでもないいたずら者で、たとえば馬の尻尾を柵に結びつけたり、井戸の中に小便を入れたりして、村の者を散々困らせるのでした。
 それもその筈、このルルトという少年、親もいなければ友達もいず、今までに一度も、からっぽの心を満たす事もなく育ってきたのです。
 しかし、そんな事など知らぬ村の者は、笑い声ををあげて悪さばかりするこの少年を、いつも苦々しく思っていたものでした。
 さてさて、そのルルトが、魔法使いの祠に目をつけない筈がありません。
 そして、春先のある日の事。魔法使いが何かただならぬ叫び声を聴いて駆けつけると、祠が何者かに荒らされ、鏡が盗まれているのを見つけたのでした。
 そして、その日を境に、ルルトは姿を消してしまったのであります。



魔法書を開くと、冒頭の言葉が魔法使いの目に飛び込んできます。

心は力、力は心
火は怒りを、水は悲しみを
風は喜び、土は慈しみをあらわすもの。
互いに惹き合う表裏のもの。
まわる車輪のごとくうつろう。

 大きな文字で大事そうに書かれた言葉でしたけれど、魔法使いには何の事やら良く分かりません。魔法とは魔法砂によって描かれた砂絵によって力を振るうもの。それについて書かれた本になぜ心の話が出てくるのか。これは彼に限らず、全ての魔法使いが抱く疑問でした。

 鏡が失われてから4日目の夜、魔法使いは調べもののために起きていました。
 実際の所、彼にも鏡のことは良く分からなかったのです。祠を管理しているのは先祖代々から続く義務のようなものでしたし、いまさら盗まれたからといってピンと来るものでもありません。しかし鏡の主の末裔としてそれではまずいと思い、鏡のことを調べるようになっていたのです。
鏡の主。あの鏡を使ってドラゴンを封じ込めた彼の先祖。
彼の先祖は、代々鏡を管理すると同時に、鏡のことを調べてもきたのです。その蓄積が秘伝の書物として部屋の奥に眠っています。
赤茶けた表紙は染み付いた油でどす黒くにじみ、手に取ると古い本特有の酸っぱいにおいが鼻を突きます。彼はそれを開いて読みはじめます。

しばらくして、何者かが玄関をノックする音が聞こえてきました。
こんな夜遅くに誰だろうと、魔法使いが首をかしげながら家の扉を開けると、家の前には、牛のように大きな生き物が座り込んでいるのでした。そのヒョウのような黄色い目は部屋の明かりを反射し、その眼光は年老いた魔法使いをじっと見つめているのです。
 恐る恐る魔法使いがランプをかざしますと、それは伝説に聞く彼の偉大なご先祖が倒したというあのドラゴンでありませんか。
 どの家でも、過去の美談というのは長く語り草になるものであります。その魔法使いも、自分のご先祖の話をすぐに思い出し、さてはその仕返しにやって来たのかと思ったのでした。

「ジムじい…」
 ジムとは、この年老いた魔法使いの名前。
「ぼくだよ。ルルト」
 その大ドラゴンは何とも情けない声でつぶやき、手に持っていた空き箱を魔法使いの前に差し出したのでした。それを見て、ようやくその魔法使いにも事情が飲み込めてきたようでして、ぽん、と手を叩いて納得します。
「はて、またどうしてそんな姿になったのかな?」
 魔法使いはまだ半信半疑。このドラゴンの言う事をすっかり信用した訳ではありませんで、ひょっとすると、ただ行方不明になったルルトの名を語っているだけなのかもしれない、そう思いました。そこで、何か聞き出そうとそのような問いを投げかけたのです。
 すると、そのドラゴンは、今らも泣き出しそうな声で今までのいきさつを話し始めたのでした。
「ぼくがジムじいの祠に忍び込んで、この箱を盗み出してから…、川上にある洞穴まで持っていって、中の物を取り出してみたんだ。…鍵は壊れてたし、箱を開けるのは簡単だったさ。そして、その中にあった物を手に取ってみたんだ。…こんな大きな鏡だったよ」
ドラゴンはそう言って、熊のような手の爪先で大きさを示して見せます。ちょうど人間が使うお盆のような大きさです。今の彼には小さいですが、人間には大きめです。
「……そこに何が映ったと思う?その中に、血のように真っ赤なドラゴンがいて、ぼくに向かって大きな口を開けていたんだ。それで怖くて、ぼくはその鏡を投げ捨ててしまった。…だけど、もう遅かったよ。そのあと、ぼくは気付いたんだ。あそこに映ったのが僕だったって事…」
話の途中からだんだん涙声になってきた挙げ句、そのドラゴンはついに泣きだしてしまいました。
 その嗚咽する声の大きさに戦慄したのか、村中の犬が猛烈に吠えはじめたので、魔法使いは必死にドラゴンをなだめようとします。ドラゴンが泣く時に涙を流さないというのは本当なのだと、魔法使いはその時知りました。
 そのドラゴンは何とか泣きやみはしましたが、しゃっくりをこいていて、いつまた泣き出すやも知れません。魔法使いはそれを危惧して、今日の所は帰るようにと彼を諭しました。
 ドラゴンは、あしたの昼、彼の隠れ場所まで来てくれる事を条件に、魔法使いのその望みを受け入れたのでした。
 それから、何もかもから身を隠すように、いそいそと闇の中に消えていったドラゴンの事を考えて、その日魔法使いはなかなか寝つくことが出来ませんでした。彼の記憶によれば、ルルトがあんなに泣きべそだったとは思えなかったのであります。


 次の日。
 魔法使いは約束通り、ドラゴンの隠れているという川上の洞窟へと向かいました。
 そして彼は、緑の野原に腰を下ろしている真っ赤なドラゴンの姿を発見したのであります。
「遅いよ」
 ドラゴンは少し機嫌悪くふくれていました。
 それにしても、見れば見るほど立派なドラゴンです。近年、これ程たくましいドラゴンにはもう、画家たちの絵でしかお目にかかる事が出来ませんので、その魔法使いは思わずほぅ、と感嘆の声をあげました。
「ルルトや。ドラゴンになった気分はいかがかね?」
「うん…。何だか口元が見えるのって、変な感じ。あと、背中の羽は邪魔だな。うまくつかえないし、あおむけになれないんだ。それと、みんな恐がって逃げちゃうかもしれないけど、ぼくはすごく力持ちになったんだぜ。大きな木だって引っこ抜いちゃう」
「それで、今の方がいいかね?太っちょだった昔の自分に戻りたいと思うかね?」
「それは…分からない」
「それなら、どうしてわしの力が必要だと思ったのかね?」
 魔法使いがそう言うと、そのドラゴンは少し恥ずかしそうにもじもじして、どもりどもりしながら話し始めました。
「ぼく、誰かと話したくてさ……、いっぱいいっぱい、話したい事があるんだ。だけど、もうぼくはこんな格好だし……。それで、ジムじいならこんな格好をしたぼくでも分かってくれると思って……」
「それで、毎晩わしの家の扉を叩いていたわけだね」
「そう!そうなんだ。……まったく不思議なんだ。こんな姿になる前は、全然、そんな事をする気持ちにはなれなかったのにさ…」
 魔法使いはこの言葉にすぐピンと来ました。
魔法使いと言うのはいわゆる未知なる事象の研究者でして、目の前の出来事に対する鋭い眼力を備えているものなのです。
 だから魔法使いは考えました。彼の体がドラゴンになったという事で、彼の心にも何らかの変化が現われたのかもしれない、と。
 すると、これからもどんどん変わっていくのかもしれない、と、また思います。
 その行き着く先、彼はどんなふうになっているだろうかと思い、それを見てみたい気持ちも、少し頭をもたげました。
「よし、それじゃあルルト。これからは週に一回、ここにて会う事にしよう」
「週に一回?毎日じゃないの?ぼくは毎日でもいいよ」
「毎日だと、生活が縛られてよくないのじゃ。それに、わしにはちとつらいわい。この斜面は」
「でもその間、ぼくはおなか減っちゃうよ」
「そのことなら、前の様に夜中にわしの所まで来るといい。それとその時、前みたいに大声を出さないように注意するのじゃぞ。一応おぬしは、まだ行方不明という事になっておるからの」
 ドラゴンは快く了解しました。
 それから日が西に傾くまで、魔法使いとドラゴンは会話を楽しみました。それを通じて、魔法使いはこのドラゴンがまさしくルルトである事を確信したのであります。なぜならこのドラゴンは、ルルトが過去にやったいたずらの数々を、細部に至るまで語ることが出来たからでした。
 二人は別れ、それぞれ自分の生活に戻っていきました。
 村ではまだ、ルルトを捜していました。でも心の狭い村人たちは、心なしかほっとしているようでもあり、まだ彼らに本当の事を知らせる必要はあるまいと、魔法使いは少しいじわるに考えたのであります。