その次の日、魔法使いは鏡の主を尋ねました。
 かつてドラゴンを封じ込めたという鏡の主は、今は緑錆まみれの銅像となってこの渓谷を見渡す高台に立っており、村の守り神となっているのでした。
その像は険しい顔をして海の方角を睨めつけ、大きな杖を右手に握り、胸を張って立ちすくんでいました。全身が力み返っていて、手や顔には血管が浮き出ていました。さぞかし名のある彫刻家によって作られたもののようであります。
 海から吹いてくる風は潮の香り運んで心地よく、魔法使いの灰色のローブは優しくたなびきます。
「ご先祖よ。いったいどうすれば、あの子を元に戻すことが出来るのじゃろうか?当然あんたは何かにそれを書き残したのだろうが。あんたは余りにも昔の人なもので、家中、物置中捜し回っても何の手がかりも出てこんかったわい。わしはもう腰が痛うて、これ以上無理はできん。村の者にも知らせるわけにはいかんし、どうすればいいのやら…」
 とは言っても、相手は銅で出来た人形。答えが返ってくるはずはありません。
 魔法使いは銅像の足元に腰を下ろし、途方に暮れて谷底にある村を眺めました。
 村ではもう、ルルトを捜す人は誰もいません。
 この世界では、子供が神隠しにあうというのは、よくある事でして、つまり、この件もそんな瑣事の一つとして片づけられてしまった訳であります。
 そうとはいえ、よくあるというだけで当たり前のように認めてしまう村の人々の様子に、魔法使いは何だか府に落ちないものを感じずにはいられないのでした。
 やがて彼は、昨日の疲れがまだ残っているのか、また春先の日差しに暖められた銅像に背をもたれるのが気持ちよかったのか、とうとう、杖にもたれてうとうとと居眠りを始めてしまいました。
 そして、しばらくして気付くと、彼の隣に、見知らぬ魔法使いが座っていました。彼よりももっと長い髭を蓄え、ジムの灰色のローブと同じつくりの、青色のローブを身にまとって。
彼は、伶羊の象形が彫りつけられている手あかでつやつやした木の杖を、曲げた膝の上に横たえて、空を見ながらおおきく息を吐いたかと思うと、まるで旧知の友人に話しかけるかのような口調で、ゆっくりとジムに語りかけ始めました。
「困っているようだな。私に分かる事なら、相談に乗るが」
 そう言って彼は、魔法使いの顔を見て静かに笑いました。
 彼の目は相手を優しく包み込むようで、それでいて心の中まで覗き通すような鋭さも持っていました。ジムはいつの間にやら完全に心を許してしまい、自分の今抱えている問題の一部始終を残らず打ち明けてしまったのでした。つまり、自分の家にあった鏡によってルルトがドラゴンの姿にされてしまった事を。
 もう一人の魔法使いはじっと聞いていました。その包み込むような柔らかな表情は変えずに、時折うなずきながら。
 そして彼の話が終わると、もう一人の魔法使いは口を開きます。
「そのルルトという少年がドラゴンの姿になったのは、おまえの家にあった鏡をその少年が持ち出してしまったのが、直接の原因だと言うのだな?」
「そうとも。他に何が考えられよう。第一、かつてご先祖の鏡の主は、ドラゴンを鏡の中に封じ込めたと言うではないか。それなら、その過程を逆に辿ることによって、ルルトを元に戻せるのではないかと思うのじゃ」
「……しかしそれでは、その少年もろとも、鏡の中に封じ込めてしまう事になりはしないか?」
「む……。そうかもしれん」
 ジムは返答に困り、口を尖がらせます。
「もう一度始めから考えてみよう。そのルルトという少年は、確か、鏡をのぞいて、そこに見えたものの姿になったのだな?」
「さよう。つまりはドラゴンじゃ」
「そして、そのドラゴンは、伝説に聞く赤い竜そのままの姿であった。と」
「その通り。だからおそらく、鏡に封印されていたドラゴンが、何らかの理由でルルトに乗り移ったのだろう」
 今度は魔法使いのほうが考え込んでしまいました。
「……それではなぜ、ドラゴンは少年の名を語るのだろう」
「そうした方が、わしに近付きやすかったからではないのか?」
「おぬしは、あのドラゴンがルルトであると思うか?」
 ジムはすこし返答を躊躇しましたが、言い放ちました。
「わしはそう思っておる。だが、目に見える部分が変わってしまえば、目に見えない部分も変わってしまうだろう。いずれルルトの心は、ドラゴンに取り込まれてしまうのかも知れんな……」
「そうか。ならば猶予はないな。困ったことがあったら、いつでも力になろう。私はいつでもここにいる」
 魔法使いは、ふもとの村を一瞥しました。
「ただ一つ言っておこう。これは単純な問題ではない。いわば長い年月を経て、根を張り巡らせた毒草が地上に芽吹いてきたようなものだ」
 ジムの目がかすんできたのか、魔法使いの姿がだんだんとぼやけていきます。
「また、ここへ来るがいい……」
 ジムの意識も遠ざかっていきました。

 気がつけば、そこには老ジムがただ一人、銅像のそばに座っているだけでした。
「夢か」
 ジムは、鏡の主の像をいぶかしげに眺めました。夢の中で見たあの魔法使いとその像とは、似ているような似ていないような、何だか判然としないものでした。
「不思議なことも、あるものじゃな」
 彼のいる高台からは、太陽が西の水平線に落ちていくのがよく見えます。港には明かりがちらほら。昼間の漁を終えた船が何隻も入ってきていました。
 丘の斜面を駆け上がってきた風は、彼と銅像の間を突き抜け、紫色の空へ飛んでいきました。
 その冷たさに彼は驚いて、体をひと振るいし、背中を丸めながら丘を下りていきました。


 次の日から、魔法使いはドラゴンと一緒に、鏡を捜しはじめました。
 二人して、火のついたランプをそれぞれにかざしながら、洞窟の中をうつむき加減に歩き回るのです。ランプで照らされた洞窟の中は思いのほか広く、湿った壁や床がランプのオレンジ色の光に反射しました。
 結局その日は見つからず、二人は魔法使いの持ってきたパンとチーズを食べて別れました。
 次の日も、その次の日も、魔法使いとドラゴンは鏡を捜し続けました。
そして探し始めてから四日目。
魔法使いが持参してきたランプの油はボトル数本分が空になり、二人とももう諦めようかと思っていた矢先の事。ルルトは、洞窟の底の泉からの照り返しが奇妙なことに気付いたのです。水からの反射なら、いつも揺らいでいるのに、そこだけは、揺らぎのないのっぺりした反射をするのです。
 不思議に思った彼は、泉の底へ降りてみようと思いました。ところが悲しいことに、ドラゴンとなった彼の体は大きすぎて、泉への入り口の裂け目に引っかかってしまうのです。特に翼が邪魔でした。
 彼は何とか入り口をくぐりぬけようともがきましたが、ドラゴンの怪力をもってしても、硬い岩盤の裂け目を広げるには無理があります。
「ドラゴンっていうのは、へんだなぁ。洞窟の中で暮らしている割には、ちっとも洞窟向きの体じゃない」
 ルルトはぼやきながら、仕方なく後ずさりを始めました。ところが、今度はお腹が引っかかって、後ろへ戻ることが出来ません。
「ほんとに、もう!」
 ルルトはいらいらして、両足を割れ目の入り口に押し付け、やけくそな気分で思い切り踏ん張りました。両足の筋肉が見る見る盛り上がってっていきます。
 すると今度は力余って、引っこ抜けたルルトの体は宙を舞い、それから反対側の壁まで飛んでいってしまいました。
 がん!と盛大な音が洞窟の中に響き渡ります。
「ルルトや、いくら退屈だとはいえ、あまり遊ぶでないぞ」
 ルルトの騒々しさに、ジムは不機嫌そうに注意しました。
「ちがうよ。鏡を見つけたんだ」
 ルルトはたんこぶの出来た頭をなでさすりながら言いました。
 ジムがその場所に来てみると、確かにルルトの言った通りです。
 二人はかがみこんで、裂け目に顔とランプを持った手を突っ込み、ランプを左右に動かしながら、泉の照り返しを観察しました。丸い光が、揺らぐこともなくこちらに届いてきます。
「なるほどな………。よし。わしが行って取ってこよう」
 魔法使いは上着を脱ぎ捨て、割れ目の中を降りていきました。
 泉のそばに来てランプをかざすと、底に見えるのは、まぎれもなくあの鏡でした。
 濁りのない泉は見た目よりもずっと深く、岸からは底に足が着きません。水は冷たく、膝までつかると鳥肌がさざめき立ってきます。
 魔法使いは意を決し、息を止めて潜りました。その際ランプを持つわけにはいかないので、潜る前に鏡の位置をしっかりと確認したつもりでしたが、ランプのない水中はまったくの闇で、魔法使いは何も分からずに、あちこちから張り出している岩や鍾乳石に頭をぶつけ手足をぶつけているうちに、息も切れて水面へと顔を出してしまいました。
「取れた?」
 上の割れ目から長い首とランプを突き出しているルルトが、期待のこもった声で聞いてきます。
「ま、まだじゃ」
 泉の水に長いこと浸かっていた魔法使いは、寒さのあまり声も震えていました。
「ごめんよ。何も出来なくて」
 ルルトの言葉に、魔法使いは返事をしませんでした。
 もう一度、魔法使いは潜りました。今度は、さっきよりも地形がよく分かります。岩にぶつかることもなく、湖底に手を伸ばしました。
 ざらざらしたり、でこぼこしていたりする洞窟の岩とは違う、平らでつるつるしたものに指先が触れ、息の切れかけていた魔法使いはすぐさまそれを手でつかみ、水面へと引き返します。

 洞窟の外で、ルルトは大急ぎで薪を集めて火をたき、冷え切った魔法使いの体を温めました。
 魔法使いが泉の底から引き揚げた鏡は、蛇が自分の尻尾をくわえながら永遠に回り続ける彫刻で縁取りされた銀の板で、吸い込まれそうなまでに磨き上げられたものでした。ルルトが覗いたときに手荒く扱ったせいで、鏡の面には小さなえくぼが出来ていましたが。
 魔法使いが手に取り丹念に眺めたところ、それはどこにでもある、普通の鏡のように見えます。
 魔法使いが鏡を持っている間、ルルトは何だか落ち着かない様子で周囲を歩いて回り、もう必要ないのに、新しい薪を取ってきたりしていました。
 魔法使いは、その鏡を正面に据えて、恐る恐る自分の顔を映してみました。ひょっとしたら、自分もルルトのようになってしまうかもしれないという不安もすこしありましたけれど、目の前の鏡は、ただ冷ややかに魔法使いの白髪交じりの髭面を映すばかりです。
「おかしいな。わしには何の効果もあらわさない。ルルトよ、お前がのぞいてみないと駄目なのかも知れん」
 ルルトは、魔法使いからすこし離れたところに立っていて、うつむいて上目遣いに呟きます。
「ぼく、何だか怖いんだ」
「何が怖い?もとの姿に戻るのがか?」
「そうかもしれない。でも、そうじゃないような気もする。もうひとりのぼくが、その鏡をすごく怖がってる………」
 魔法使いは、ルルトの息が荒いのを見て取りました。
「だが、これはおぬしが望んでいたことじゃろうが」
 魔法使いは鏡をルルトに手渡そうとしました。
 その瞬間、ルルトの表情が一瞬だけ恐ろしくゆがみました。まるでルルトではないかのような表情。恐ろしい獣の顔でした。
「うん……、やってみる」
 ルルトはそう言って、けなげに愛想笑いを浮かべます。そして目を閉じて鏡を正面にかざし、じわりじわりと目を開けていきました。
 魔法使いは息を呑んで、その様子をじっと見守ります。
 しかし、それもまもなく、拍子抜けした空気へと変わっていきました。何のことはない、ルルトが覗いても、それはただの鏡だったのです。
 しばらくの沈黙の後、二人は同時に大きくため息をついて、半分怒った様に眉間を寄せながら、頭を並べて鏡をじっくりと眺めます。
「おぬしがかつて見た鏡は、確かにこの鏡だったのだな。ルルトよ」
「ぼくが忘れるもんか。このふちの飾り。この蛇の目。忘れるもんか」
 ルルトは鏡を両手で持ち、顔に近づけたり遠ざけたり、くるくる回してみたり、裏返してみたりしましたけれど、鏡はどうやっても、ただの鏡のままでした。
「ひどいなぁ。ぼくの顔は。りるれろばー」
 ルルトはやけくそな気分になって、鏡に向かって笑ってみたり怒ってみたり、口をとんがらせたり舌を出したり目をくりくりさせたりしています。
「魔力を失ってしまったのかも知れんな」
 魔法使いも、やれやれといった表情で、ルルトのそんな様子を眺めていましたが、やがて立ち上がり、言いました。
「わしには、もはや万策尽きた。おぬしをもとの姿に戻すのは無理かも知れん」
「そう。それじゃ、しょうがないね」
「がっかりしないのか。一生をドラゴンのままで過ごさねばならんというのに」
「分からない。ぼくは、このままでいいかも」
 魔法使いは、ルルトから鏡を受け取りました。
「これはわしが持っておこう」
「いいよ。ぼくには何の役に立たないし」
 それから二人は、静かに食事を済ませ、空に星がちらほら見られる頃に別れます。
 ルルトは、その星ぼしを悲しそうな顔で眺めて、それから洞窟の中へと戻っていきました。