次の日から、魔法使いは風邪を引いて寝込んでしまいました。どうやら冷たい泉に浸かっていたのが原因のようです。
「ゴホッ!……、すまんな。もう歳じゃ。無理はするものではないな……」
 見舞いにきて窓から顔を覗かせているルルトに、魔法使いは咳き込みながらぼやきます。
 年を取ってくると、病気も治りにくくなるもので、魔法使いの力ないせりふは、ルルトが数週間もの間、一人で過ごさなければならないことを意味していました。
 しかしこの頃になってくると彼の心もだいぶ変化していて、別に独りでいることも苦ではなくなっていました。彼は誰ともすすんで会おうという気もしなくなっていたのです。
 そして、一週間がたちます。
 そのころ、ルルトは毎晩、浅い眠りにたびたび目を覚ますことを繰り返していました。
 この日も彼は夜中に目が覚めて、それっきりどうしても眠れなくなってしまいました。
 彼はひどく空腹で、魔法使いの家からもらった量では、とても腹の虫がおさまらないのです。それに、じめじめした洞窟の、冷たくて居心地の悪い、おまけにひどく狭い穴倉に尻尾を丸めて体を折りたたんでいるだけなので、彼はすごくいらいらしていました。
 ぴたん…
 ぽたん……
虚ろな洞窟の中を、雫がしたたり落ちる音だけが響きます。
彼は暗闇を見つめているしかできません。
じりじりと、心の糸は焼き切れようとしていました。
 とにかく、何かひどく乱暴なことがしたくなるのです。
 突き上げてくる衝動に任せて彼は洞窟を飛び出しました。
 そして、大きく瞳を見開き、彼は森の中を駆け抜けます。体に当たる枝をことごとくへし折っていきながら。
 今の彼の目は黄色く輝き、真夜中の森の中でも不思議なくらい良く見えるのです。だから何がいるか分からない森の中だって少しも怖くはありませんでした。彼の響かせる大きな足音に驚いて、慌てふためき鳴きながら木陰に隠れるネズミやトカゲ達を見ながら、彼はますます気分を高揚させていくのでした。
 自分の持っている力を解放し、自分の心の求めるままに追い求めます。何が望みか何をすればいいのか、今までになくはっきりとそれらが分かりました。
 彼がまっとうな人間だったなら、きっとそれで良かったのでしょう。
 しかし、彼の知らない間に、彼の心は変わっていたのです。今の彼は人間というよりドラゴンでした。
 魔法使いがひそかに恐れていたことが現実になろうとしていました。
 彼は羊飼いの牧場に忍び寄り、回りを柵に囲まれてすっかり安心して眠りに入っている羊たちの中から子羊を一匹、その首をひねって持ち去っていったのです。
 そして内蔵を引きちぎり、がぼり、がぼりと骨ごと、その哀れな子羊を、真っ暗な洞窟の片隅でむさぼり食いました。その姿は猛獣そのものでした。
 何度も、彼の良心はそれを止めようとしました。しかし一度動き始めると何もかもが完全にマヒしてしまうのです…。

 それからの彼はますます飢えていく一方でした。
兎だろうがなんだろうが、彼の目の前を通り過ぎるものは片っ端から捕まえてむさぼり食いました。そしてたくさん食べれば食べるほど、さらに強烈にお腹が減ってくるのです。
 彼の手口はしだいに大胆なものになり、捕まえる家畜も次第に大きくなっていきました。村の人々もさすがに家畜の数が減っていく事に気が付いて、夜の見張りをたてたりしましたが、未だにルルトを見つけることは出来ませんでした。
 そんな中、ぷっつりと家に来なくなった彼をおかしく思った魔法使いは、まだ節々の痛む体に鞭打って、ドラゴンのすみかを訪れました。そこで彼は、ルルトが洞窟のすみっこで、村から盗んで来た家畜を血まみれになりながらむさぼり食っている姿を見てしまうのです。
「……!」
 魔法使いは、カンテラの先に照らされた、血のしたたる真っ赤な口先を見て言葉をなくしました。明かりの反射で光るその目は、獰猛な怪物そのものでした。
 ドラゴンは一通り肉の固まりを飲みくだすと、何事もなかったかのように口のまわりを拭き取って、満足そうに笑うのでした。
「来てたんだ。……悪いものを見せちゃったね」
 魔法使いは、まだ何も言えずにいました。そして悲しい顔をしてルルトを見つめます。
「おかしいでしょ。人間だった頃には全然考えられなかったことだもの。だけど、これがぼくの本当の姿なんだ」
 そして魔法使いは、かつて自分が危惧していたことが現実になったのを知ったのです。
「おぬし、とうとう心までドラゴンになってしまったの…」
「だけど、仕方ないよ」
「ということは、このままドラゴンとして生きるつもりなのか?」
「…仕方ないよ。こんなふうになってしまったんだ。これがぼくの運命なんだ……」
「……もうわしは、おぬしには必要無いのう。もう身も心もドラゴンになってしまったおぬしは、他のドラゴン達と同じように人と交わりたがらぬようになってしまったようじゃ」
 ルルトも、それは否定できないでいました。
「今日が最後じゃな。わしらが会うのも……。わしは疲れた体を休めねばならん」
 魔法使いはうつむき、その顔は影に黒く塗りつぶされていました。ルルトは何も言えずに、カンテラの明かりを見つめ続けていました。じめじめした洞窟の石の柱からしたたり落ちる水滴の反響音だけが、沈黙を計るように何度も聞こえてきます。
「仕方ないよ……これが運命なんだ……」
 ルルトはかすかな声で搾り出すようにつぶやきました。
 それを聞くと、魔法使いは突然、ルルトをにらめつけて立ち上がり、叫びます。
「何が仕方ないものか!おぬしは自分にはめられた足かせをどうして振りほどこうともせんのだ。どうして力なく何もかも甘受しようとするのだ!何もかも仕方のないものだと?分かりきったことのようにお前さんは言うが、おぬしのような若造にいったい何がわかっているというのだ!わしを見るがいい。わしはもう七十にもなるが、いまだに何も理解したとは思わぬ。なのに、おぬしときたら…」
 魔法使いは急に話を止めます。そして再び腰を下ろし、手で顔を覆ってため息をつきました。手の隙間から見える顔に苦悩の表情を浮かべて。
「……すまぬ。おぬしに説教するつもりはなかった」
「構わないよ。ぼくがそう言われても仕方がないことも、分かっているんだ……。だけど、ぼくには少しも力が沸いてこない。ぼくにはきっと、もともとこんなふうになる原因があったんだな。ジムじいにはなくて、ぼくにはある何かが、ぼくの心に大きな穴を開けてしまったんだよ。きっとジムじいも、ぼくの様に生きてきたのなら、ぼくの気持ちを分かってくれるだろう。……だけどそれは無理だよ。ぼくのようにみんなから見捨てられて、もの珍しい人生を送ってきた奴の気持ちなんて、わかりっこないんだ。さっきジムじいは、ぼくがこんな姿になってしまってすっかり心まで変わってしまったと言ったけれど、ぼくは全然そんなふうには思ってない。ぼくはいつものルルトのままなんだ。今のぼくがけだものの様に獰猛にふるまっているのも、昔ぼくがあちこちでいたずらをしていた時と同じようなものなんだよ。だから、ぼくの見た鏡と言うのは、ドラゴンを封じ込めた鏡じゃなくて、映った人を、その心にふさわしい姿にする鏡なんだよ、きっと。それがたまたまぼくの場合、こんなドラゴンだったってわけさ」
 そう言って、ルルトは悲しそうに笑って自分の体を明かりの前にさらけ出しました。彼の尻尾が岩をこすって音をたてます。思えば昔から、彼はいつもこうやってやけっぱちなおふざけをするのです。誰も分かってくれない。分からせる術もない。だからおどけるしかないのでした。
「ぼくを見てくれよ。ほら、ぼくの醜いけだものの体。……。どうしたの?ジムじい、ぼくの姿を見てくれよ……」
 魔法使いはうつむいたままでした。
「ぼく、ジムじいに感謝してるんだ。とても感謝してる。だって、ぼくの気持ちを分かってくれようとする最初の人だったんだもの。ぼくはすごく嬉しかったよ。本当に嬉しかった……。だけど、僕はもう泣けないんだ。涙が流れないんだ」
 魔法使いはうつむいたまま、体を少し震わせていました。
「どうしたの?ジムじい…。寒いのかい?」
「ああ、寒いわい…」
 魔法使いは震えた声でつぶやきました。光るものが、彼の袖をぬらしていました。ルルトは、気付かない振りをしました。
「ここは冷たいところだよ…。ジムじいは、もっと暖かいところで生きるべきだね」
「すまぬな。わしが浅はかなばかりに……」
 魔法使いはそう言って、一人静かに洞窟を後にしました。
彼が洞窟の外へと出たとき、中から悲しい雄叫びが聞こえてきました。もう涙すら流すことのできない、ルルトの慟哭でした。

 やがて、渓谷の村を荒らすドラゴンの噂は、近隣の村や町の人々の知るところとなり、数多くの討伐隊や命知らずの賞金稼ぎ達が、そのドラゴンの首を求めて村までやって来るようになりました。
 しかしルルトは、巧みな知恵と魔法使いの密かな助力によって、彼らの手にかからずにいました。
 そしてルルトのなかには、自分を狙う人々に対する憎しみがどんどん蓄積されていったのでした。彼等と来たら、ただ自分の欲と名誉のためだけに、ドラゴンを倒したという証明を得たいがために、何の関係もない自分を付け狙ってくるのです。人間はもう信じられなくなっていました。あの魔法使いだけを残して。
 しかし、二人が恐れていた事が起こってしまいます。
 どこかの古い文献を手がかりにしたのか、ドラゴンを封じ込めたという鏡の主の子孫であるジムに、ルルト討伐の命令が来てしまったのです。
 そして金持ちや遠い町の領主などが、入れ替わり立ち替わり魔法使いのところに嘆願しに来るようになりました。しまいには、ドラゴンを倒さなければ命はないと脅されるようになったのです。彼らは何とかしてその手柄を自分のものにしたいのです。みんな善良な振りをして、自分の事ばかり考えている醜い者達でした。
 そしてとうとう彼らの脅しに屈し、魔法使いはルルト討伐の請願書にサインしてしまうのです。

 それからすぐに魔法使いは、いにしえの文献をもとに、ドラゴンを封じ込めた鏡の復活に取りかからされました。
 テーブルの上に鏡を置き、その上から色々な種類の魔法砂を降りかけていきます。その一振り一振りに、魔法使いの無念の思いが込められました。ところがどういうわけか、彼が鏡の復活を望まないと思うほど、鏡は目に見えて力を蓄えていくのです。魔法砂は怪しく青白く光り、鏡の中へと吸い込まれていきます。
何もかもが望んだ方の反対へと動いていくかのようでした。

 そのころのルルトは、渓谷の村をほとんど荒らし尽くして、近辺の村々にまで手を伸ばし始めていました。もはや彼にとって人間は、自分に歯向かう敵以外の何者でもありません。彼はひたすら人間を憎んでいました。彼はかつて自分が人間だったという事も、もうすっかり忘れていました。ただ感情に任せ、めちゃくちゃに暴れ回っていたのです。
 そしてついに、魔法使いが彼を封じる鏡を持って彼の前に現われる日がやって来てしまいます。
 魔法使いが多くの村人たちや、高慢ちきな領主や兵士たちを先導して彼の前にやって来た時、その光景に愕然としたのは、言うまでもありません。
 彼の中で、何かが脆くも壊れ去りました。それは彼の中にあった、たった一粒の、誰かを信じるという想いだったのです。
「…どうして?」
 彼は一言訊ねました。
 信じていた者に裏切られた怒りが、彼の中を駆けめぐりました。気がつくと、彼の口からは炎がちろちろと出ていました。
「どうしてさ!ぼくは、ジムじいだけは信じていたのに!!」
 彼の声は竜巻のような巨大な火炎となって、魔法使いのもとへ飛んでいきました。彼についてきた人々は恐れおののき、蜘蛛の子を散らすように退散していきました。魔法使いだけが、炎をかわしてなおも前進してきます。
 ドラゴンは怒りに身を震わせて、彼に牙をむき出しました。獰猛な、憤怒の獣そのものの表情。しかし、魔法使いはそれでもひるみません。
「悔しかろう、悔しかろう…。わしも同じじゃ。わしを痛めつけるがいい。牙をたてるがいい。わしもおぬしと同じドラゴンだったら、わしの後ろにおる者どもを引き裂いておろうて……」
「嫌だ!ぼくはあなたを傷つけたくはない!!」
「しかし、それではおぬしの生きる道はないぞ。わしの屍を乗り越えていくがいい。そうでなければ、わしがおぬしを封印するまでじゃ。わしの一族は掟によって、一度約束した事は命をかけてもやり遂げねばならんのでの……」
「……封印する?ぼくを?」
 ドラゴンは手を休めました。
「ぼくは、殺されるわけじゃないんだね?」
「ああそうとも。じゃが、死んで生まれ変わった方がましかもしれん。力が尽きるまで、いつまでも封印されるのじゃぞ。そなたのように力の強いドラゴンの事じゃ。途方もない年月になろうて」
 そう言って魔法使いは、懐から鏡を取り出しました。かつて彼を竜に変えたあの鏡です。鏡は魔法使いの手によって魔力を回復し、かつて二人で見つけたときとは違う、黒々とした光を放っていました。
 ルルトはその鏡をじっと見つめ、そして言いました。
「窮屈じゃなきゃ、いいけど」
 ルルトはうっすらと笑います。
「…!?」
 魔法使いは初め、その意味が分かりませんでした。しかし、彼の言わんとする事は徐々に理解し、それと共に驚きをもって彼を見つめます。
「やっぱり、死ぬよりはましさ」
 ルルトはかるく目くばせをしました。
「すまん…」
 魔法使いには彼の顔を見る事が出来ませんでした。
 それから魔法使いは彼に鏡を向けました。ルルトは彼の後ろにいる者たちに二人の事がばれないようにと、わざとらしく魔法使いを威嚇しました。
 ぱっ
 魔法使いは魔法砂をぶちまけます。すると、それはたちまちルルトの回りに陣を描きました。そして鏡を高く掲げながら、彼は言いました。
『鏡よ捕らえよ!』
 叫びと共に縁取りの蛇の目が輝きます。鏡から発せられた幾筋もの黒い光が次々に真っ赤なドラゴンの体へと巻きつき、彼をすっぽりと覆ってしまいます。
その後、光は逆回しのようにのたうちながら鏡の中へと戻り、ドラゴンのいた場所にはもう何もありませんでした。
 魔法使いは大きなため息をつき、悲しさに目を細めながら鏡を眺めます。
そこには何も映す事のない黒々とした鏡面あるだけでした。
「仕方がなかった…」
 無念さで彼の心は張り裂けそうでした。
何も知らず、彼の後ろでこわごわと様子を見守っていた人々の中から、割れんばかりの歓声が沸き起こり、彼は喚呼の中、英雄として迎えられました。人々は手を叩いて彼を賞賛しました。
 しかし、魔法使いは考えます。
 本当に、これで良かったのかと……。