第二章 鏡の世界



 ………気がつくと、ルルトは砂漠の上に横たわっていました。

 見上げれば星一つない闇が、息苦しさをもってべっとりと覆い、砂だと思っていた足元は、ぼんやりと青く光るガラスのような粉でした。
 しんと静まり返った地平線まで果てしなく、その青く光るうねが続いて、彼一人。他に動くものはいません。
「ああ…」
 ルルトはため息のような長い嗚咽を吐きました。
 まるで、全てに失望した彼の心の中より続いているような景色だったので、自分の中の悲しみや怒りといったものが、外に流れ去ったようになって、彼はぽかんとその場で座り込むしかなかったのです。
 腕で目をこすったとき、彼は自分が服を着ているのに気付き、それから自分の体を、地面の青い光を頼りに眺めてみました。
 彼が身につけている服は、彼が人間だった頃に着ていたものでした。彼は自分が人間に戻ったのだと思い、手探りで体をなでさすって見ましたが、どうやらそれは思い過ごしのようでした。
 今の彼の姿は、人間だった頃の自分とドラゴンになった自分がごちゃ混ぜになっていて、人間でもなくドラゴンでもない、服を着て、長い尻尾と首と鼻先に子供の手をした奇妙なもの。それはまるで、人間とドラゴンがつぎはぎになっている自分の心がそのまま形になったようでした。ここは鏡の中。魔法によって作られた世界。心と体の区別なんてないのでしょう。

 しばらくの間、ルルトは歩いてみました。
 ぐるりと周囲を見回してみても、どこも同じような景色で、砂丘に刻まれた自分の足跡がなければ、歩いてきた方角さえ分からないようなありさまです。
 そんな世界を目指すものもなく歩きながら、ルルトは自分が本当に独りぼっちになってしまったのだと感じていました。
 きっとこのままどこまで歩いていっても、出会うものは一つもなく、心にさざなみが立つこともないだと彼は思い、だんだん歩いているのも嫌になってくるのです。
「誰もわかってくれなかった。あのひとをのぞいては。誰もがぼくを傷つけた。悪意に満ちた世界から身を守って何がいけないんだ。………ぼくは逃げたんだ。だからここにいる」
 ルルトはそう独り言を洩らし、怒ったように体を左右に揺さぶりながら、何個目かの砂丘を登っていました。尻尾がガラスの砂にこすられてひりひり痛み出してきたので、右手で先っぽを握りながら。
 痛みは感じるのに、不思議とお腹は空きませんでした。ものでも心でもない今の彼は、幽霊のようなものなのでしょう。

 彼は何年も歩き続けているように感じました。
 振り返ると、足跡がいくつもの砂丘を横切って、闇の中へと消えていくのが見えました。相変わらず空腹はなく、疲労もないので、時間が経つのさえ感じられなくなってきていました。
 ま、あれから一時間だろうが一日だろうが一年だろうが、そんなことは彼の関心にないことでした。何も変わることがなければ、時間なんてないようなものです。
『何で、自分は歩いているんだろう?』
 歩きながら、彼は何度も自問しました。
 どうせ誰もいないんだから、動き回る必要もないだろう、と思うのです。
 なのに、歩いていこうとする気持ちが彼を捉えて離さないのです。彼がさびしい気持ちになればなるほど、その力は強くなりました。
 そして、彼は走り出しました。
 お腹は空かなくても、疲れることはなくなってはいませんでした。ダチョウのように前かがみになって、尻尾を振り上げて、息が尽きて吐き気がするまで、彼は青い砂丘を飛び跳ねていきました。
やがて言う事を聞かなくなった体がバランスを崩し、彼は頭から砂にめり込んで止まります。
 砂の中で息をしながら、ルルトはここに来て初めて、強い感情に襲われて、激しくむせび泣きました。どうせ誰も見ていないのです。なりふり構わずに全身をくねらせて砂を撒き散らせながら、力の限り彼は泣きました。全てのことが彼には許せませんでした。彼が望んだちっぽけな願いさえ叶えられず、自分の不運がただただ憎かったのです。
「生まれたことが不幸だったんだ!親に捨てられたことが不幸だったんだ!あの村にいたことが不幸だったんだ!あの鏡を覗いた事が不幸だったんだ!不幸!不幸!何一つ僕にはどうすることも出来なかったんだ!!」
 彼には、運を支配する何者かが自分のことを眺めて残酷な笑みを浮かべているようにさえ思えました。そいつに向かって、自分の爪を立ててやりたい気持ちでした。
 漆黒の闇に向かって、彼はありったけの大声で叫びました。
 ドラゴンと人間の混ざり合った、奇妙なけだものの声が、冷たく青く光る砂漠の中へと吸い込まれていきました。何度も何度も、彼は叫びました。全てをさらけ出しました。
 へとへとになった彼がふと我に帰ると、ぼんやりと自分の体が赤く光っているのに気付きます。彼には、それがどういう意味を持つのか分かりませんでした。



 時間はうんざりする程あって、泣きわめいて乱れきった彼の心もやがて回復し、また歩き始めます。体はあれからずっと、薄赤く光っていました。
 やがて彼は、大きな骨を見つけました。
 それは砂丘の中から、頭とあばらの一部だけを外にのぞかせて、光るガラスの砂に青黒く照らされていました。
 それを初めて目にしてすぐ、彼はそれを掘り起こしにかかりました。彼は無我夢中になりました。
 誰もいないと思っていたこの世界に、自分以外の何かを見つけたのです。彼はうれしくて仕方がありませんでした。
 息が切れるまで掘って、息がおさまるまで一休み。掘って休み、掘って休む。彼は飽きることなくそれを何百回も繰り返しました。
 大きな、とても大きな骨でした。頭だけでルルトの体くらいもあり、全身になると一つの砂丘くらいもありそうでした。それをたった一人で掘り出すのは、大変な作業です。
 でも、今の彼にはそれが楽しくて仕方ありませんでした。彼の手によってあらわになった骨格が、砂に埋もれている部分の想像を駆り立てて、彼の好奇心をいっそう煽り立ててくるのです。掘り進んでいけばいくほど、彼の両手はやすりでこすったように腫れ上がり、ひりひりと痛み始めます。彼もそれを気にして痛がりましたが、作業は休むことなく続きました。
 すこしづつ、骨格を覆っていたガラスの砂が取り除かれていくのを眺めていると、彼の心は、久しくなかったような満ち足りた気分になりました。少なくともこの作業をしている間だけは、この死んだような世界の中にも、確かな時間が流れていることが実感できるのです。自分は孤独ではないと感じられるのです。確かに、時を隔てて離れ離れになっているとはいえ、目の前にいるのは、自分と同じ、この世界をさまよった者なのですから。

 骨格の上半分を掘り起こした時点で彼はいったん作業を止め、柱のように地面からそそり立つあばら骨の林にもぐりこんで、疲れた体を休めることにしました。
 仰向けに寝転がって、漆黒の空にぼんやりと青く浮かび上がった骨格に囲まれていると、彼は自分が守られているような気がして、とても安らかな気分になりました。そして目を閉じると、深い眠りに落ちていったのです。

 それからどれだけ時間がたったでしょう。さらさらと、砂丘の砂が流れる音で、彼が目を覚ますと、あたりが何だか騒がしくなっているのに気がつきました。
 完全に静まり返ったままだと思っていた世界に、今は風が吹いていました。
 風は次第に強くなっていって、やがて砂を巻き上げ、砂塵で何も見えなくなるほどの激しい嵐へと変わっていきました。それも、ただの砂嵐ではありません。尖ったガラスの結晶が無数のナイフのように飛び狂う嵐です。
 怖くなったルルトは砂の中に体をうずめて、ただ一刻も早く、この嵐が通り過ぎるのを待ちました。
 彼の上には、嵐が運んできた砂がどんどん積もり、息苦しくなった彼は狂ったようにもがいて、外の空気を求めに砂から顔を出し、そしてまた潜る事を繰り返しました。

 風が静まるまでの間が、彼にはとても長く感じられました。もっとも、本当に長い嵐だったのかもしれません。
 周囲がだいぶ静まった頃を見計らって、彼は砂の中から顔を出しました。
 周囲の地形は一変し、彼が歩いてきた痕跡も洗い流されていました。彼がやっとの事で掘り出した骨も、再びそのほとんどを砂の中に埋め戻されていました。
 それでも彼は、諦めませんでした。諦めたって何にもならない事は、今の彼にはよくわかるのです。だって彼は、生きているのだから。
 砂でもみくちゃになった彼の服はぼろぼろに引き裂かれ、今ではほとんど裸でした。だから、すこしドラゴンに近付いたように見えます。でも、誰もいないこの世界で、自分が裸であることは、大して気にはなりませんでした。そして、肌があらわになったせいでしようか。体の赤い光は、ほんのり強くなったように思えます。

再び彼は、骨を掘り起こしにかかりました。
 一掻き、また一掻きと、骨の輪郭を丁寧になぞるように、砂を取り除いていきます。
 長い、長い時間が流れました。
途中、何度も嵐に邪魔されながら、何万回もの砂掻きの末に、とうとう彼は、全ての骨格を発掘することを成し遂げました。
 大きな、大きな竜の骨でした。
 神殿の柱のようなその大腿骨に腰を下ろしながら、ルルトは涙を流しました。身動き一つしないその骸は、やはり、彼の心にあふれた思いを受け止めてはくれないのです。それはただ地面の明かりに照らされながら、物言わずに横たわるだけでした。大きな仕事を成し遂げた感慨がさめてしまった後の彼に残ったのは、そんな、より大きくなった孤独でした。
「ねえ。お前はどんな気持ちでここをさ迷ったんだろう。僕のように孤独に締め付けられながら、あの残酷な嵐に身を削られて、骨となって砂に埋もれていったんだね………」
 語りかける彼に、骨は何も語りません。
「お前はどうして、ここに閉じ込められてしまったんだい?お前は何をやったんだい?僕は、みんなを苦しめた罪で、ここにいる。全てを捨てて、全てを諦めてしまった罪だよ。僕は怖かったんだ。もうこれ以上、傷付くことも傷つけることもしたくなかった。僕の心にはとげがあって、抱きしめるだけで相手を傷つけてしまう。だからみんな怒ったり恐れたりして、僕を傷つけたり、遠ざけたりするのさ……」
 ルルトの独り言は続きました。
「……切り離された木の葉は地面に落ちるしかないみたいに、どうにもならないものもある。鳥みたいに羽ばたいていける羽と力があれば、そこから自由になれる。僕はそう思ったんだ。だから、鏡を覗いてドラゴンになんかなってしまったんだな。僕は翼と力がただ欲しかった。それをどう扱うかも考えずに……。これがその結果なんだ。結局、より多くのものを傷つけて、自分も余計に傷付いただけだったんだ」
 言葉が途切れると、たちまち沈黙に覆われてしまいます。ルルトにはそれが耐えられませんでした。
「ねえ……。お前のことを話してよ。お前の事が聞きたいよ。僕はお前に会いたいんだ。他の誰でもない、お前が僕には特別なんだ。お前なら、僕の気持ちも分かってくれるだろう。だから、僕もお前の気持ちが分かるようになりたいんだ。同情なんていらない。分かってくれれば、抱きしめてくれればそれでいい……」
 ルルトはまた泣きました。
「きっと、誰かがいるから、こんなに寂しくなるんだな。誰もいないとおもっていたら、こんなに苦しくならずにすんだ。だけどそれでも、僕は誰かを探すよ。ずっとずっと、寂しくなってもいいよ。返り討ちでも構わない。僕は君に会いたいよ……」
 骨が何も言わなくても、ルルトの語りかけは延々と続きました。時々、話すことがなくなって、しんとしてしまいます。でも、いくらでもある時間の中、話すことがなくなっても、彼は次々に新しい話を作っていくのです。そうして、長い時間がたちました。
 ルルトは、竜の頭蓋骨を隣に並べて眠りにつきました。寂しくて、悲しくて、物言わぬ骨を手繰り寄せました。つめたくて、ざらざらとした肌に、ルルトは頬擦りしました。大きく息をして、彼は眠りに落ちていきました。



 目がさめても、彼は竜の骨のそばを離れようとはしませんでした。この世界に、ここほど彼の心を揺さぶる場所は、他にありそうにないと思えたからです。
 彼はもう、言葉を発することもなくなってきました。そうしなくても、通じ合えるような気がしたのです。
 竜の骨のそばで、静かな時が過ぎていきました。
 ルルトは、穏やかな気持ちで、周囲を散策したり、残された骨がないかと、あちこちを掘ってみたりしていました。
 ここに来て、何十回目かの風が吹き始めました。
 ルルトは何かを心に決め、竜のあばら骨によりかかって、遠くにじっと目を凝らしました。
 砂漠の地平線から、津波のように、砂煙が全てを飲み込みながら近付いてくるのが見えます。ルルトの心臓は高鳴りました。
 足元の砂が早く流れ始めました。それは膝から胸、そして顔へと、砂煙が這い上がってきます。なのに、ルルトは身じろぎ一つせず、風のなすがままにされているのでした。
「お前のそばで、僕も骨になろう。そして一緒に、永遠に横たわろう。風は僕の体から肉を剥ぎ取っていくだろう………。僕の骨がお前と似ているなら、ここに横たわる二つの骨は、まるで親子のように見えるだろう。物好きな考古学者がここを掘り返せば、きっとそう思って、物語を作ってくれるよ。お前と僕のしあわせな作り話を」
荒れ狂うガラスの砂は、彼の体に残っていた衣服を全て剥ぎ取り、さらに裸の皮膚にヤスリをかけ始めました。
「でも、こんな所まで、学者さんが来れるのかなぁ。僕だってどうやって来たのか、分からないのに」
 全身をもみくちゃにされながらも、ルルトは笑っていました。
 目も開けられず、吹き飛ばされそうなほど激しい風の中、ルルトは骨にしがみついて、立っていようと必死でした。吹き付けてくる砂は、容赦なく彼の体から肉をこそぎ落としていき、その度に激しい痛みが彼を襲い、流血が全身から力を奪っていきます。
 そして、もう駄目だとルルトが倒れこもうとしたとき、不思議なことがおきました。突然風がやんだのです。目を閉じていた彼には、何が何だかさっぱりわかりませんでした。
 彼が恐る恐る目を開けてみると、風上に大きな背中が見えました。何者かが嵐をせき止めているのです。大きな、大きな竜でした。その竜は背中の翼を目いっぱい広げ、ルルトが吹き飛ばされそうになっていたあの風にも微動だにしません。その体は、ルルトと同じように赤く光っていました。
 ルルトはあっけにとらわれ、突然現われたその竜を見ていました。するとその竜も振り返って、黄色い目でルルトを見て、冗談めかした顔で目配せをしました。
 ルルトはうれしくなって、体が傷だらけのことも忘れて、その竜の背中に抱きつきました。硬い風船のような奇妙な弾力の背中に、ルルトは心ゆくまで顔をうずめました。
「ありがとう」
 ルルトは泣きじゃくりました。
 胸いっぱいの思いで、大声で泣きました。
 すると、ルルトの体の赤い光はさらに強まり、まるで自分が太陽になったかのように激しく輝き始めました。そして、彼を守ってくれている竜の体もまた同じように輝いています。
 竜は翼をたたみ、ルルトのほうに向き直りました。その顔には、はっきりと見覚えがありました。
 竜は何も言わず、ルルトを抱きかかえ、大きな翼の一仰ぎで空に舞い上がりました。
 二人は抱き合ったまま、あっという間に嵐を抜け、漆黒の空をどこまでも上昇していきました。そのスピードはあまりにも速く、ルルトが竜に語りかけようとした言葉も押し流されてしまうほどでした。
 加速は延々と続き、地上はとうの昔に見えなくなっていました。
 大きな竜は憤怒の形相で、大きく咆哮しました。そして二人の発する光はさらに強まりました。
 と、その時、彼らの行く先の、底なしに遠いと思っていた闇の世界の先に、光の亀裂が走りました。
 竜は何度も吼えました。一緒にルルトも、ありったけの声で吼えました。その度に、闇の亀裂は一つ、また一つと増えていきました。目の前の視界を横断するような巨大な光の亀裂です。
 亀裂が入る度、沈黙のしていた世界に切断の大音響が響き渡り、二人の咆哮と共に世界を揺さぶりました。
 そして、何十回目かの叫びのあと、世界を覆っていた闇は、粉々に砕け散ったのです。