第3章 湖の島で



 魔法使いは、村を見下ろす丘に立っていました。深夜になり、眼下の明かりは、ひとつ、またひとつと、眠りに落ちていきました。
 丘に吹き上げる風は吹いたりやんだり、その度に草いきれの匂いが立ち込め、月夜の雲の流れも早まります。
「風よ、もっと吹け」
 魔法使いはそう呟き、かぶっていた帽子を脱いで、白髪混じりのぼさぼさの髪を外気にさらしました。
 彼が振り返って高みを見上げると、そこには彼のご先祖である鏡の主が、銅像となって月に照らされ、青く冷たい色をして突っ立っていました。
「わしは、何もかもが嫌になった」
 魔法使いは、像の台座に腰掛け、杖を傍らに立てかけました。
「人が、自分に何かが出来ると思うのはおこがましい事なのかも知れん。だがそう思わねば、生きる力が出てこないのも人じゃ。正しいのかも間違っているのかも、本当のところは分かりゃせぬ。あの子も……」
 そう呟いていた矢先、強い風が枯れ草を巻き上げ、魔法使いの顔に当たります。彼は目の前に手をかざして風が収まるのを待ちました。彼の隣に置いてあった杖は風に負け、からからと音を立てて台座を転がり落ちていきました。
 風が収まり、魔法使いが腰を上げて、地面に寝ている杖に手を伸ばすと、それよりも早く、彼のものではない手が杖を拾い上げました。魔法使いが顔を上げると、そこには前にも出会ったもう一人の魔法使いが、彼の杖を差し出しながら立っていました。
 魔法使いは何も言わずに、渡された杖を受け取ります。
「鏡の主よ」
 魔法使いにそう呼ばれたもう一人の魔法使いは、黙ってその場に立っていました。そして彼が天を仰ぎ見ると、魔法使いも空を見上げました。そこには無数の星ぼしが宝石箱のようにきらめいています。そして時々、流れ星が視界を横切っていきました。
「今宵は流星雨だそうな」
「そのようだな」
「天の暦はいつになっても変わらぬが、同じようで少しずつ違う」
 二つの影はささやき合いました。
「鏡の主よ。あの鏡のことを教えてくれ。あんたはなぜ、あんなものを作ったのだ」
 魔法使いは鏡の主へ向き直って言いました。
 鏡の主は星空を向いたまま、答えます。
「――私はただ、彼を殺したくは無かったのだ…」
「それは、伝説の赤い竜のことか?」
「リシオンは、素晴らしき友だった」
「待ってくれ。歴史では…」
「お前は、あの時を生きた私の言葉より、つまらぬ書物の言葉を信じるのか?歴史など、支配者によって紡がれたおとぎ話だというのに」
「確かにそうかも知れん。だが、そこから真実を見ることがいかに困難かはおぬしだって知っておるはず。怒らずに答えてくれ。おぬしが封印したドラゴンは何をしたというのだ」
「リシオンは、私が心から敬愛した唯一の友だった。……竜と人、この地上に火を操る二つの種族が生れ落ちて以来、両者の歴史は血で血を洗うものだった。彼は、その歴史に終止符を打ち、新たな世界を夢見ていたのだ」
「それでは、歴史に書かれていることとはまるで違うな」
 鏡の主は、魔法使いに構わず続けました。
「彼は竜族を団結させることによって、人間と対等となる事を目指していた。支配者たちには、それが脅威に映ったのだ。……私は、宮廷魔術師としての忠誠を試され、彼との戦いを余儀なくされてしまった。だからあの鏡を使い、彼が生き延びることを願ったのだ」
「しかし、彼は蘇らなかった」
「そうだ。だが、鏡の中で彼の体だけは生き続け、それがルルトという少年に取り付いてしまったのだろう」
「しかしなぜ、あの少年でなければならなかったのだろう?封印されてより300年、鏡を覗いた者は彼一人ではなかったはず」
「その少年の中にある何かが、リシオンを強く引き寄せたのだろう。怒りや悲しみが共鳴を生んだのだろう。封印されるとき、彼の心は怒りに満ちていた。そして同時に深く悲しみ、諦めと孤独に打ちのめされていた。私はそれまで、あれほど深く激しい感情に出会ったことはない。そして、その引き金を引いたのは私なのだ。私がいまだに死にきれずに彷徨っている理由が分かるか?彼の激情は私をも打ちのめし、私をこの世界に縛り付けているのだ」
 鏡の主は涙を流していました。怒りに顔をひどく歪めて。魔法砂が彼の周りを舞い始めます。
「私はこの世界が憎い。我々をこのように導いた運命が憎いのだ……」
 魔法使いはその言葉を聞いて、表情をこわばらせました。魔法砂に覆われた鏡の主の体が赤黒く光り、風は再び吹き始めました。
「いっそのこと、この世界を粉々にしてやりたい……」
 赤く光る闇の手は、魔法使いの胸元へと伸びていきます。
「わしは諦めぬ!」
 魔法使いはその手を払いのけ、目を大きく見開き、怒鳴りました。
「死せるものは死せるものとして振舞え!おぬしが抱く無念、わしにもよく分かる。だが、この世界は生ける者のものじゃ。そして生きることとは、諦めないと言う事じゃ。わしはあの子を救って見せる。このわしの全てを賭けて、この怒りと悲しみの輪廻より抜け出すのだ。もうこの世を呪うのはやめよ」
 魔法使いは持っていた杖を高々とかざし、眼前の亡霊を一喝しました。杖の先から光が満ち、亡霊の周囲を包みます。彼の回りで舞っていた魔法砂はその色を変えていきます。
「後のことはわしに託せ。おぬしはゆっくりと休むがいい…」
 魔法使いの放つ光によって、亡霊の輪郭が、次第にぼやけていきます。
「おぬしの使った鏡、それはおぬしの希望であり、同時に絶望であった。だからわしは、その明るいほうを輝かせて見せよう」
「その言葉、確かだな?」
「力の限りやってみよう。だが未来はわしにも分からぬ。ともすれば、わしもおぬしの隣に列することになるやも知れぬ」
「フフ……、楽しみにしているぞ」
 影はもはや人の形をしていません。
「それと、お前に一つ教えてやろう…。あの鏡は私が作ったものではない」
「…なんだと?」
「お前はまだあの鏡の本当の使い方を知らない。鏡を取り戻せ」
 亡霊の声はみるみるか細くなって、ついには消えてしまいました。
「どういう事だ?」
 気がつくと魔法使いは、一人闇夜の中、杖を握って立ちつくしていました。
「…消えたか」
空には無数の星々が静かに瞬き、いくつもの流れ星が地上へと落ちていきました。
「さて、このわしに、どれだけの事が出来るかな。あの子のもとへと行かなければ…」
 独りで丘を降りながら、魔法使いは呟くしかありませんでした。