ルルトは、嫌な夢から覚めて、まだ興奮していました。
 夢の内容は、彼がまだ幼い頃の出来事です。

 彼にはたった一人、友達と呼べる人がいました。
ナールという物静かなな少女で、ルルトはいつも彼女の手を引っ張って、あちこちを散策していました。
子供同士で遊ぶ際、ルルトはいつもあれしようこれしようと言うので、他の子供達からは疎ましく思われていましたけれど、ナールだけはいつも彼の味方で、それ面白いねとか、それじゃ駄目だよとちゃんと応えてくれるのです。だからルルトもいつも間にか彼女にはすっかり心を許していました。
彼女と過ごした数年間は、彼にとってはかけがえのない思い出でした。

しかし、ある嵐の夜、ナールは突然姿を消してしまいました。
沢のそばの家ごと、泥流によって流されてしまったのです。村人は総出で捜索をし、彼もその中に入って必死で探しました。生きていて欲しいとただそれだけを願って。
飛び散る泥のにおい、不安、疲労、そして怒り、悲しみ。彼は涙でかすむ目を何度も何度もぬぐいながら泥を掘り返し、草木を分け入って探したのです。

泥の中から彼女の亡骸が見つかったのは、それから二日後の事です。
ルルトにとってあれほど悲痛な思い出はありません。

彼の見た夢はその捜索の時の記憶をまざまざとなぞったものでした。
 目を覚ましてからも、しばらく布団の中でもがいていました。何で自分が布団の中で眠っているんだろう、などとは考えずに。
なのに彼は、ナールの顔も声も、どうしても思い出せないでいるのでした。

 ルルトは今、見知らぬ石造りの壮麗な建物の中にいます。
 というのも、鏡の世界を破って、気がつくとこの建物の中にいたのです。
 この世界で、彼はまたあの赤い竜の姿をしていました。
 そしてその彼を、「リシオン」と呼んで付き従う二匹の竜に囲まれていたのです。
『ここはどこだろう?』
 鏡から抜け出して以来、体はぐったりと疲れ、身動きすることさえままならず、ベッドに横たわりながら、そこから見える景色を頼りに、あれこれと考えていました。初めのうちは疲れにねじ伏せられて、目覚めてしばらくするとまた眠ってしまうことを繰り返していましたが、竜たちが運んでくる食事をとりながら幾日もすごすうちに元気も出てきて、今日あたりは動くも出来そうな気がしました。
 誰もいないことを確認してから、彼は物音を立てないように注意深くベッドから下り、ゆっくりと外に向かって歩いていきます。そして大きな窓を開けて、ベランダへと進みました。
 時刻は昼、外は晴れ渡り、ルルトの真っ赤な体は太陽に照らされて、鱗の一枚一枚がつやつやと輝きます。
「おお、リシオン様の復活だ!」
 どこからともなく、声が聞こえてきました。
 ルルトはびっくりしてしりもちをついてしまいます。
「一週間で歩けるまでになられたとは。リシオン様はやはり、並のドラゴンとは違われる」
 黄色い、年老いた竜は、さもうれしそうに長い髭を手ですきながら笑いました。
「しかしまだ、本来の状態には程遠い。無理するのはやめたほうがいい」
 隣にいる青い体の大きな竜はそう言って、ルルトの体を抱え、ベッドへ寝かせてシーツを被せました。よく見るとそれには粗い縫い目が走っていて、何人分ものシーツを縫い合わせてあるのが分かります。ジグザグで乱暴な縫い目からは、あまり器用でない彼らの苦労がしのばれます。
「アローエン、何でぼくはこんなに大事にされるの?」
 ルルトは、黄色い竜にたずねました。アローエンとは、この竜の名前です。
「リシオン様なら、そんなことはとうにご存知のはず」
「だから僕はリシオンって名前じゃないよ。僕はルルトっていうんだ。何度言ったら分かってくれるの」
「いやいや。私は忘れません。そのお姿。かつてのように力強く、そしてますますお若くなられたように見える。あなたこそ、かつて我々竜族を導いた伝説のお方だ」
「でも、それは伝説じゃないか。本当にいたのかも分からないのに……」
 アローエンは軽く咳払いをして、片方の眉毛をつり上げてルルトを睨み、それから目を閉じると、仰々しく話し始めました。
「私は幼い頃、そのリシオン様にじかに会った事もある。当時の私は、まだ年端もいかぬ若造ではあったが。その私が言うのだから間違いはない。しかも伝説の通り、あなたは封印された鏡から出てこられた。これ以上どんな証拠が必要ですかな」
 ルルトには、もう返す言葉がありません。
「明日からは、体を動かす訓練を始めますぞ。リシオン様。今日はしっかり休まれよ」
 アローエンはそう言って、出口に向かって歩き始めます。
 この建物が人間用に作られたという事は明らかで、各部屋の入り口はドラゴンにとっては少し小さすぎました。アローエンもこの部屋から出る時に、いったん体を横にして戸口をくぐり、胴体を外に出してから尻尾を通らせて出て行かなければならなかったのです。
「セバルー。ここはどうも、僕らに向けてあつらえた場所じゃないみたい。ここはどこ?」
 ルルトは、部屋に残った青い竜に向けて尋ねました。
「君がいたところさ」
 と言って窓へと歩み寄り、外を眺めて、また言いました。
「湖に囲まれた監獄の砦だ。鏡に入ってもなお君を恐れた人間達が、君を閉じ込めておくために、5人の看守と共に鏡を運び込んだのだ」
「それで、看守たちはどうなった?」
「みんな船で逃げていったよ。飛んでくる俺達の姿を見たとたん、すっかり肝を冷やしてしまってね。お陰でこちらも、余計な争いをせずにすんだ」
「セバルー達が、僕を助けてくれたの?」
「いいや」
 セバルーはルルト方へ首を動かしました。
「本当は俺もダメかと思ったんだよ。あの鏡は何をしても、何の反応もなかった。ただ真っ黒なだけでね。でもこっちへ来て半月もたった時、君が鏡のそばで気を失っていたのを見つけたんだ」
「でもアローエンは、僕のことをリシオンっていうひとと勘違いしてる。セバルーは僕のこと、どう思ってる?」
「確かに、アローエンが君の事をリシオンだと思いたがる気もよく分かる……。だが俺は、君がかつて何をやったのかも知っているから、そうは思わないよ」
 その言葉を聞いて、ルルトはほっとした反面、何だかとても恥ずかしい気持ちになりました。
「そうか……。僕がリシオンとはぜんぜん違う、ただのくだらないやつでしかないって事も知っているんだね」
「ああ」
 少し気まずい沈黙の後、セバルーは再び口を開きました。
「確かに、かつて君がしたことは、俺達の面汚しでしかなかった。でも、実際に君に出会って、俺も考え直したよ。あの鏡を、リシオンでさえ破れなかったあの鏡を破って君は出てきたんだ。これはひょっとするなと思ったね」
 ルルトは、ここに来て初めて、あの鏡の中で起きた事を思い出しました。鏡を飛び出すあの時、彼を抱えて飛んだあのドラゴンが、アローエンの言うリシオンだったのかと思い、いまの自分の体を眺めて、そのドラゴンと瓜二つの姿に、何か熱いものがこみ上げてきました。
「リシオンは、僕の中にいるよ」
 ルルトはセバルーに向かって言いました。
「そう願いたいものだ」
「違うよ。僕はリシオンと一緒に鏡を破ったんだ。僕だけだったら、きっとそんな事はできなかった。きっと彼が、僕に力をくれたんだ」
 ルルトはベッドから降りて、窓際にいるセバルーのそばへと歩いていきました。足取りにふらつきはなく、それを見ていたセバルーはうれしそうに笑いました。
「たいしたものだ。もう歩けるのか」
「僕は歩かなくちゃいけないんだ。そうでしょ?」
「その意気だ。ルルト」
 セバルーは歩み寄ってきたルルトの肩を右手で抱き寄せて、左手で窓を開けました。
 錆び付いた窓のちょうつがいは、キィと鳴いて、外側へと折れ曲がっていきます。
 ルルトはセバルーに支えられて、バルコニーに出て外の景色を眺めようと首を伸ばします。
 周囲は青黒い水に囲まれ、もやでかすんで見える森がその向こう側に広がっていました。風はひっきりなしに吹きすさび、湖面には白い波頭がたくさん見受けられます。
「本当に何もないや」
「ここはもともと、昔の王様の別荘だったそうだ。でもごらんの通り、岸から遠く離れているせいで、王様たちも心細かったんだろうな。しまいには誰も住まなくなって、とうとう監獄として使われるようになったんだそうだ」
「どうりで、贅沢な作りだと思ったよ」
「部屋や通路が広いのは、俺達にとってはありがたい事さ」
 セバルーは大理石で出来た手すりに背中を預け、翼を広げて風に当てました。
「ほんと。洞窟の中みたいな窮屈な思いもしなくてすむ」
 ルルトはあくびをしました。
「セバルーもここに来る前は、洞窟で暮らしていたの?」
 ルルトがセバルーに尋ねると、彼の表情が少し曇りました。
「俺達ドラゴンは、洞窟じゃなくて家って呼んでいるんだ。俺達にもプライドがあるからな」
「……ごめん」
「……俺の家は、ここから南へ五日ほど飛んでいったところにある。俺が小さい頃は、周囲にもたくさん仲間が住んでいて、いい所だった」
「そうか。やっぱりみんな洞窟に……」
 セバルーが睨んだので、ルルトは口をつぐみました。どうしても人間だった頃の習慣が出てきてしまいます。
 セバルーは、やれやれとため息をつきました。
「俺達は岩場や崖に大きな横穴を造って家にするんだが、本来ドラゴンっていうのはそんなところに住む生き物じゃない。大昔のドラゴン達は、人間に負けないくらい立派な家を築いて、そこに住んでいたのさ」
「どこに?」
「山のいただきさ。そこから風に翼を乗せて、ドラゴン達は互いの家を行き来していたんだ」
 ルルトは、自分が空高く舞いながらセバルーの立派な家に飛んでいく様を思い浮かべて、胸を躍らせました。風はまるで透明なベッドのように彼の体を乗せ、羽ばたきの度に、下界の景色は流れていくのです。
「楽しかっただろうね」
「そうだろうな」
「でもなんで、そんな暮らしが出来なくなってしまったんだろう」
「遠い昔は、人間達ともそれなりに仲良くやっていたんだ。お互いの住むところが重なることもなかった。でも、人間達が鉄を見つけてから、事態は変わってしまった。鉄はドラゴンを殺すことも出来るし、鉄が取れる場所や鉄を作るのに必要な薪は、ドラゴンの住む山にしかない。そうなると人間達が何をするかは明白だろ?」
「そうか……。人間はずいぶんひどいことをしたんだ」
「もっとも、俺達のご先祖にも非がなかったわけじゃない。ドラゴン達はみんな、自分さえ良ければいいと考える生き物だし、なにより金銀や宝石に目がなかった。それで人間たちにうまく丸め込まれて、山を降りたドラゴン達がたくさんいたらしい」
「だけど、やっぱり人間はひどいよ」
ルルトがそういうと、セバルーはぽんと彼の長い首を叩き、
「気にするなよ。要するにどっちもどっちって事さ。俺だって、別に人間が憎いわけじゃない。ただ、人間に盗まれた誇りをもう一度、取り戻したいだけなんだ」
 セバルーは背中の翼をいっぱいに広げ、ルルトの目の前に立ちました。
「俺達は、ただ目いっぱい空を舞っていたいだけなんだよ。そのための翼だ。狭い穴倉で一生を過ごすために生まれてきたわけじゃない」
 セバルーの大きな翼は、日の光をさえぎり、ルルトの体に大きな影を被せてきます。
 ルルトには、セバルーの気持ちが良く分かりました。自分が洞穴で暮らしてきた記憶をたどり、あんな窮屈な思いはごめんだと言う思いが、彼にもあったからです。
「さっき、アローエンが出て行っただろ」
「それが、どうかした?」
「あれは、みんなに知らせに行ったんだよ。今宵の月に赤いカーテンを被せにいったんだ」
「何の合図?」
「さしずめ、『伝説の君竜様が現われた。みんな集まれ!』って所だろう」

 その夜。
 東の空から、今まで見たこともないような真っ赤な月が昇り、生暖かい風が湖に大きな波を起こして、監獄の島へと吹き付けてきました。
 その風に乗ってアローエンは帰ってきました。ずいぶんと疲れた様子で、食事をとると、さっさと寝室に入ってしまいました。
「どうやら一日中飛び回っていたらしい。ご老体には辛かったんだろう」
 セバルーはそう言って寝室の扉を閉め、目が醒めるまで彼の眠りを邪魔しないようにルルトにも言い聞かせました。
「セバルーも飛べるの?」
 自分の寝室へと戻る道すがら、ルルトがセバルーに聞くと、彼はちょっと怒ったような顔をして、
「馬鹿にするなよ。そんなのわけもない」
「それじゃ、ドラゴン達はみんな飛べるんだね」
 てっきり冗談だと思っていたセバルーは、ルルトが真剣な顔をして聞いてくるので、少し言葉に迷いました。
「そりゃあ、人間達が自転車に乗るようなものだからな」
「僕は飛べないんだ。僕は人間だったから、背中に生えている翼の使い方も知らない」
 ルルトの言葉がだんだん泣き言めいてきたので、セバルーはうんざりして、
「そうかい。それはお気の毒」
 と、吐き捨てるように言って、先を急ぎました。
「だから………」
「だから?」
「飛び方を、教えて欲しい……んだ」
 その言葉を聞いて、セバルーはにっこりと笑います。その言葉が聞きたかったと言わんばかりに。
「何だよ。始めからそう言いなよ」
「意地悪」