「もうためらうな。怖がるから翼が縮こまってしまうんだ」
 角に草きれが絡みついたままの姿で、セバルーはしかめっ面をして言いました。
翼を広げた二体の竜は月明かりに照らされながら、ベランダの手すりに並んで立っています。
 彼の右に立っているルルトの両足は震えていました。下までは優に5メートルはあります。
「だって、下を見ちゃったもん」
「下は誰だって見るさ。おびえるからダメなんだ。いくぞ、一、二の……」
二人は翼を勢いよく広げました。砦の外にパンッ!と張りのある音が響き渡りました。
「三!!」
 まずセバルーが、そしてほんの僅かの間をおいてルルトが両足をけって宙へ飛び出します。
 いち早く風をつかみ、地面すれすれからUの字を描いて舞い上がったセバルーは、翼をばたつかせながら振り向きました。
 今回は、彼の耳にルルトが地面にこすりつけられる音が聞こえなかったので、少し気になったのです。
 すると、その彼のすぐそばを、巨大な赤い影が天めがけて舞い上がっていきます。
「翼を水平に!」
 セバルーは滑空しながら叫びました。
 ルルトはようやく上昇を止め、水平に飛び始めました。
 しばらくすると、セバルーが羽ばたきながら上昇し、ルルトの横にぴたりとつけてきます。
「飲み込みが早いな」
「見え透いた事を。18回も失敗したじゃないか」
「おだてて伸ばすのが、俺の主義なんでね」
 並んで飛びながら、ルルトはセバルーから、旋回の仕方、上昇や下降の仕方。速度の上げ方下げ方などを教わり、それを実践しながら、時は過ぎていきました。
 彼の飛行訓練には、下が湖面だったことも幸いでした。そのおかげで、落ちることへの恐怖もいくらか軽くなったのです。そして、日がすっかり落ちた頃になると、ルルトは湖に飛び込み、そこから泳いで島へと戻っていきました。

 次の日も、そのまた次の日も、空が赤く色づいてから暗くなるまで、二人は飛行訓練を繰り返しました。
 ルルトは日に日に飛ぶのがうまくなっていきました。一週間を過ぎると、セバルーとの競争にも何とかついていけるようになります。この頃になるとルルトも飛ぶのが楽しくなってきて、毎日夕方になるのが待ち遠しくなりました。
 ルルトが飛行訓練を始めてから、一週間と二日経った頃。
 紫色に沈みゆく空に星がちらほら覗く頃、二人は湖を離れ、川に沿って源流まで遡る飛行をしていました。
 ルルトは全身で風をなめるように触れながら、注意深く飛行コースを選んでいきました。眼下には怪しげな森が黒々と、大地に這っています。今までに彼が見たことのないような深い森です。
 突然の乱気流で姿勢を乱されることがたびたびありました。空気が重くなったり軽くなったりといった、セバルーが口癖のように言っていた言葉の意味が、ようやくルルトにもわかってきたところでした。
 濃紺の弓反りの地平線に、明かりがちらほらと見えてきました。二人はどんな山よりも高く舞い上がっていました。風に抱かれているようで、ルルトはとても興奮していました。
「もっと高く飛んでもいい?」
 ルルトはセバルーに聞きました。
「もう無理だ。空気が薄すぎる」
 そう言ってセバルーは翼を前傾させ、降下をはじめました。ルルトは、慌ててその後を追います。
「肝比べだ。ついて来れるかな?」
 セバルーは翼をすぼめて、どんどん速く落ちていきました。
「負けるもんか」
 この頃には、ルルトもだいぶ自信がついていたので、迷うことなく彼の後を追って、翼をたたみます。
「たいした自信だ」
 二人は並んで、地上へまっさかさまに落ちていきました。
 ルルトは息を殺して地上に目を凝らし、距離を測っていました。
 すると、その視界になにやら小さな、動くものが見えたのです。
「セバルー、何かいる」
「む!」
 二人は力一杯翼を広げ、体を滑空の姿勢に持ち込みました。
 びゅん!と尻尾が前方にしなって、ルルトは付け根に鈍い痛みを感じました。
 地上の動くものはひどく驚いた様子で、いななき声を発しながら逃げだそうとしました。
「静まれ。ヘッギー。」
 すぐさま、強い調子の掛け声が響き渡ります。
 上で旋回しながらその様子に目を凝らしていたルルトは、その声の主にひどく驚きました。
そしてすぐさま体を失速させ、落っこちるように地上に着地しました。
「誰かは存ぜぬが、少し悪戯が過ぎますな。わしのロバはすっかり怯えて、今日はもう使い物にならなくなってしまった」
「ジムじい!」
 ルルトはそう叫ぶなり、怒っている声の主のことなどお構いなしに抱きつきました。
「その声は、ルルトか?」
「そうだよ!僕だよ」
 ジムは優しく、ルルトの首筋を撫でました。
「そうか……。よくぞ戻ってきた」
 ジムは抱かれたまま目を閉じ、深く息を吸い込みました。
 辺りはもう夜です。

 ジムがここにやってきたのは鏡を取り戻す為でした。何しろ、護衛の兵士がみんな出て行ってしまった為に、いつ無くなってもおかしくない様子でしたから。もちろん、その用事はすぐに済みました。
「その鏡は一体何なんです?」
「わしにも分からん。わしに分かるのは、これからこれがどうしても必要という事だけだ」
 セバルーもアローエンも、ルルトの知り合いだという事を聞かされればすぐに安心して打ち解けたのです。
 たいしたもてなしは出来ませんが、魔法使いを歓迎する場が設けられました。

「そうか……、もうそんな事に………。もっと早く訪れるべきだった」
 アローエンから一部始終を聞いたジムは、宙を見つめながらため息をつきます。
 場所は変わって、ここは監獄島の大広間。絨毯も何もない石造りの床の上に焚き火を炊いて、一同皆その周りを囲んでいました。
 窓という窓を開けっ放しにしても、煙は天井にたまって、広間全体が薄ぼんやりと輪郭を失っていました。
「わしも、そなた達に知らせたいことがある」
 ジムはそう言って咳き込みました。
「…やっぱり、屋内で焚き火はよくないのぉ」
「申し訳ない。外は風が強すぎるから」
 セバルーは弁明しました。
「それに、生木が少し混じっておる」
「ごめん。僕だ」
 今度は、ルルトが頭を掻いて謝ります。
「フフ…、まあよいわ」
 ジムは、少し寂しげに笑いました。
「それで、鏡の主殿。我々に知らせたい事とは?」
 改めて、アローエンが尋ねます。
「おぬし達がここに来た時、看守たちが逃げ出したのは覚えておるじゃろ」
それを聞いて、セバルーは少しむきになって言います。
「あれは、俺達が逃がしたんだ。俺達だって、無駄な殺生はしたくはない」
「そうか…。それなら、裏目に出てしまったようじゃの」
 ジムは肩を落としました。
「と言う事は、彼らを逃がすべきではなかったと言われるのか?」
「そうじゃ。むしろ殺しておいたほうが、後々有利になったかも…。いやいや、そんな事を言っても仕方がない。とにかく、彼らが王都に戻り、報告をする段になったときには、すっかり話に尾ひれがついておって、ここには何十もの竜達が立てこもっていることになっておる。わしは道中で、この牢獄に関する様々なうわさを聞いた。例えば、夜な夜な湖の周りを竜達が飛び回り、近付く者に襲い掛かってくるとかな」
「それは、半分本当だ」
 ルルトはそう言って苦笑い。
 そんなルルトをセバルーは横目でにらめつけます。
「そして様々なうわさが広まってくるにつれて、人々の不安が無視できないほどに膨らんでくる。そして、それを静める為に、この国がどういう行動を取るか。おわかりじゃな?」
「へぇ、軍隊でもよこすっていうのかい?伝統の竜討伐という訳かな」
「売り言葉に買い言葉。気をつけなされ。人間の間には、未だに竜達を快く思わぬ者が多い。彼らにとってみれば、今回の事態は千載一遇のチャンスと映ったであろう」
 ジムのその言葉に、セバルーは声を荒げました。
「人間達はいつもそうやって、自分達の征服を正当化する。けだものに服を着せて、紳士淑女の仮面をかぶる」
「そうじゃ。そういうふうにしか振舞えぬ者もおる。しかしそれとて、お互い様であろう。今ここで行なうのは、人を裁くことではないはず。こうしている間にも、軍隊は出陣して、ここへと向かっているかも知れんのだ」
「それならこっちにも対抗策はある。もうすぐ、国中の竜がここにやってくるんだ。彼らと共にかかれば人間の軍隊だって……」
「何じゃと!?」
 ジムは両目を見開いて驚きます。
「それは、本当なのか……。アローエン殿、セバルー殿の言う事は本当なのか?」
 ジムは立ち上がってアローエンの方へ詰め寄りました。
 アローエンはうつむいて何も言わず、眉間に深々としわを寄せて両目を閉じていました。
「セバルー殿!」
 魔法使いはセバルーの方を向きました。
 セバルーは、つい口走ってしまった自分の言葉に、冷や汗を流していました。
 そして、魔法使いの呼び掛けにも答えようとはしません。
「それでは、このままでは……」
 魔法使いは、アローエンの黄色い体に寄りかかりながら両膝をつきました。
「申し訳ない。ジム殿…。こんなつもりではなかった……」
 アローエンは目を伏せ、小さな声で呟きました。
「戦争に、なるの…?」
 みんなの話を黙って聞いていたルルトは、居たたまれなくなって口を開きました。
「僕のせいで、戦争になるの?」
 だれも彼の問いかけに答えようとしません。みんなうつむいていました。
「ルルト。今まで黙っていたけど…」
 セバルーが口を開きました。
「やめよ、セバルー」
「長老、もういいだろ!本人もうすうす気付いているし」
 セバルーはアローエンの静止を無視して話し始めました。
「ルルト、今まで黙っていたけど、君を迎えにきたのは、ただの良心なんかじゃない。君は違うと言い張るかもしれないけれど、君の体はリシオンのものだ。リシオンは俺達の間で伝説になっている竜の名だ…。
 この前の赤い月は祭りのためのものじゃない。あれは戦いの合図なんだ。俺達竜族はこの場所に集い、人間たちに戦いを挑むんだ。君はその時にみんなを元気付ける旗印なんだよ」
 その言葉を聞いたルルトは立ち上がって叫びました。
「そんなの嫌だ!」
 そして足早に広間から出て行こうとしました。
 セバルー立ち去るルルトの背中に向けて言い放ちます。
「君が望もうと望むまいと、君はそうするしかないんだよ。ここを出て、一人でどうするつもりなんだ。君はもう人間じゃない。ドラゴンにはドラゴンの生き方しかできないんだ。人間と一緒に生きる事はできないんだ!」
「僕は僕だ!僕の生き方は僕が決める!だから僕はここにいるんだ。この体の持ち主だって、きっと僕と同じ気持ちさ!」
「君一人の力では、もう止められないよ」
「そんな事、やってみなけりゃ判るもんか…」
 ルルトはそのまま広間を出て行ってしまいました。
『あの子も変わったな…』
 魔法使いは頭の中で呟きました。
「やれやれ、セバルー。どうか彼がここから出て行かないように見張っておくのだな」
「言われなくても、そうするよ」
 そう言うと、セバルーはルルトの後を追って出て行きました。
 そして大広間には、魔法使いとアローエンの二人だけが残されました。
 もう焚き火の炎は消えて、おきが赤黒く二人を照らしていました。
「それにしても、彼の言葉が気にかかる。ジム殿よ、もし彼がリシオンであったなら、やはり同じことを言ったのかな?」
 棒でおきをつつきながら、魔法使いはそれに答えます。
「わしには、リシオンのことは判らん」
 つつかれたおきがひっくり返ると、ぱっと炎が上がりました。
「だが、リシオンを封印したわしの先祖の言葉を借りれば、リシオンは彼の最大の友であったという事だ」
「友?自分が封印した者を友と呼んだのか?人間とは分からぬものだ」
「そう。人間とはそういうものだ。厄介な代物じゃな」
 魔法使いはため息をついて、少し笑いました。

 セバルーがルルトの寝室に入ると、窓が開け放たれ、風がカーテンを捲り上げているのが見えました。
 彼はすぐにベランダに出て行き、ルルトの姿を探しました。
 彼が見つけた時、ルルトはベランダの手すりに外向きに腰掛け、今にもそこから飛び立とうとしていました。
「どこに行くつもりなんだ」
 セバルーは彼を引き止めようと、声を荒げて言いました。
 ルルトはその声に気付いて、セバルーの方へ顔を向けました。
「僕は、道具じゃないよ」
「判ってるよ。そんな事。何もここから出て行く事はないだろう」
「セバルーだけは、僕の友達だと信じていたのに」
「もうすぐ仲間がたくさんくるさ。そうしたら、友達もいっぱいできる」
「そうやって僕をけしかけるのはやめてよ。僕を使って都合のいいことばかりしようとしてる」
 セバルーは、きまりが悪そうに頭を掻きました。
「世の中、持ちつ持たれつなんだよ。君にとっても、決して悪い話じゃないだろう?」
「僕は嫌なんだ。もう誰も傷つけたくない」
「よく言うよ。君が昔どれだけひどいことを人間達にしたか、そんなのとっくに知っているんだぜ」
 セバルーの言葉に、今度はルルトは頭を掻いて顔をしかめました。
「あの頃の僕は、ただ怯えて、生きるために戦ったんだ。だけど今度のは違う。セバルーたちは、しなくてもいい戦いをしようとしている。そういう風に見えるんだ」
「まあな。でも、積もり積もったものがあるのさ。子供には判らないような事さ」
「そんなもの、判ったところで何になるっていうのさ!」
 ルルトはセバルーをにらめつけました。
 セバルーは身じろぎ一つせずに言い放ちました。
「それが、仲間になるっていう事さ。同じ利害を背負い、同じ歴史を背負うんだ」
「そんなの嫌だよ!」
 ルルトはふてくされて、外を向いてしまいました。
「もう、僕のことはかまわないでくれよ...」
 背中を向けて、彼は小さな声でうめきました。
 その様子を見て、セバルーは思いました。
『この子は、ずっと孤独だったんだろうな』と。
 そして、しばらく何も言わずに、ルルトの背中を見守りました。
 そして、彼をだましていた自分を、少し責めました。
「俺は今でも、君の友達だよ。たとえ思いが違っててても…」
 ルルトは何も言いませんでした。
 月が湖面を照らしています。風が吹き、水面にさざなみが立つと、白い針を束ねたような湖面の月も、共に揺れます。
 風は二人のところまでやってきて、ひんやりと二人の肌をなで、髪をなびかせました。
「月がきれいだね」
 ルルトは夜空を見上げて、つぶやきました。
 セバルーは、ルルトの唐突な言葉に、何を言ったらいいか分からなくなりました。
「セバルーは、僕の友達だよ…」
 ルルトの言葉は、まるで独り言のようでした。
「だけど僕は、違う道を行くよ」
 ルルトは手すりの上に立ち上がりました。そして、再びセバルーに振り返りました。
 ルルトは笑い、セバルーも笑顔で答えます。
「だけど、いつまでもセバルーとは友達だよ」
「ああ。いつだって友達さ」
「ありがとう、セバルー。僕は幸せだ」
 ルルトの両足が手すりから離れました。
 ぐらり、と体が外の闇に向かって傾き、ぱんっ、と翼が勢いよく広がりました。
 翼が風をつかんで、ルルトの体はみるみる持ち上げられていきます。そして、二度三度力強く羽ばたき、彼の姿はどんどん小さくなっていきます。
 セバルーはただじっとそこに立ち尽くしたまま、ルルトの姿が見えなくなるまで眺めているしかできませんでした。