第4章 ほむらの民

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 森の小道を、老人を乗せたロバが駆けていきます。
 ロバはかなり息が上がっていて、口からは泡だった唾液を飛ばしていました。
「頑張れ、ヘッギー。もう少しの辛抱じゃ」
 老人は手綱を握り締め、ロバの首筋を叩きます。ブヒヒン!とロバはいななき、地面を蹴って前へ前へと駆けていきました。

 ロバの背に乗っている老人は、魔法使いのジムでした。
「戦いがもう始まっていなければいいが…」
 ヘッギーの背に激しく揺さぶられながら、彼は道の先ばかり見ていました。気ばかり焦って、いたずらに体が前のめりになるのでした。
 ロバの脇にくくりつけてある鏡。それは、この前魔法使いが砦より取り戻したあの鏡です。
『鏡の主よ、お前はわしに何をさせようというのだ…』
 ジムは鏡にちらりと目を遣り、今までに起きた事に思いをはせます。

『お前はまだあの鏡の本当の使い方を知らない。鏡を取り戻せ』
 あの時、鏡の主は確かにそう言いました。
 だから、ジムは砦に赴き、鏡を取り返しはしました。しかし、本当の使い方が一体なんなのか、まだ彼にも良く分かりません。ただひとつ言えることは、この鏡が彼の一族に何らかの目的を持って手渡され、それを守るために代々伝わってきたという事です。そうしてまで守るものとは一体なんなのか。彼は注意深く思い出そうとしていました。
「今のわしに分かるのは、鏡にはもっと力が必要なのだということだ…」
 それは、リシオンやルルトを封印したのとは違う力なのは確かです。

 戦いが始まってしまう。
 ジムはとにかく急いでいました。
 戦いでは、負けた陣営の大将はその首を差し出さなければなりません。
 この戦いでドラゴン達が負けてしまったら、大将にされたルルトの命はなくなってしまうでしょう。
 それに今回彼らが勝った所で、さらに人間との戦いが続くだけです。かねてより人間達はドラゴン達を討伐する口実を求めていました。それに乗ってしまった時点で、ドラゴン達は嵌められたようなものでした。

 かつて、リシオンと鏡の主が生きた時代にも、同じような戦いがありました。その時もドラゴン達は敗れ、住む所を平地から追われてしまったのでした。
 今起きているのは、その時と鏡合わせのようにそっくりな状況です。
 何度も繰り返される排斥と戦いの歴史。
 それは一人の人間にはどうしようもないような巨大な奔流でした。

 同じ頃、山と山との間の小道を、大勢の人々が東へと向かっていました。その数ざっと1000。
 幾つもの荷車、そしてたくさんの馬。
 それらが、カチャカチャと金属が擦れる音や荷車の軋む音と共に、ゆっくりと歩いていきました。
向かう先は、湖の砦。
 彼らの進む道は、両脇をうっそうとした森が覆い、それはまるで深緑色の大波のように道に覆いかぶさらんと枝枝を伸ばしてきていました。
 人の一団は二列になって、馬に乗った二人の男の後を歩いて行きました。
 布で覆われた荷車の荷台には、たくさんの武器や鎧が見えます。
「まるで我らを呑み込もうとしておるようだ。これが昼間の行軍であって良かった」
 先頭の二人のうち、栗色の馬に乗り、赤い帽子をかぶった男がそう言って肩をすぼめます。
「ハハ、怖いのですか。セロム殿」
 黒い馬に乗ったもう一人の男はその様子を見て、自分の口髭をなでて笑います。
「ここの森はちと怪しげに見えまする……」
「まあ、この森のせいで湖の城は捨てられたのだろう。ここは人が遊ぶには濃過ぎるようだ。それが牢獄になり、いまではドラゴン達の根城になってしまった」
「ナセル殿も良くご存知ですな」
「私もこの任を任された以上、それなりの事は調べてある」
「では、ここの奥に、森に埋まった古の都市があるという話はご存知で?」
 セロムはそう言って森を指差しました。
「学者だな。我々軍人はなす事しか考えぬ。そのために調べる事はあってもな」
 ナセルは前を向いたまま答えます。
 その様子を見て、セロムはそれ以上その事を語るのをやめました。
 一行は東へと進んでいきました。
 後ろの兵士たちも、それぞれ語らいながら、しかし列を乱す事なく付いてきます。
「ところでナセル殿、先ほどの赤いドラゴンのことをどう思われました?」
「多分斥候か何かであろう。彼らは空を飛ぶだけにやっかいではあるな」
「鉄弓は効果がありましたか?」
「わからん。すぐに逃げたからな」
二人は空を見上げながら語り合いました。入道雲が大きく盛り上がっていました。
「私には、あの竜が何かを言っているように見えました」
「そうかもしれん。攻撃するそぶりもなかったし、もしかして何かの交渉をするつもりだったのかもしれんな」
不意に、森から鳥の叫び声。
「だが、今となってはもう遅い」
 セロムはナセルのほうを向きました。
「ナセル殿はもしかして、この戦いをお望みではないのか?」
 ナセルは少しうつむき、短い口髭をなで、そしてセロムのほうを見て厳しい表情をしました。
 浅黒い、彫りの深い顔の奥から、鋭い目が光ります。
「セロム殿。目付け役として、城にそう伝えたければそう伝えてもよろしい。戦いは手段であって目的ではない」
「いやいや申し訳ない。私は決してナセル殿を貶めるつもりで言ったのではござりませぬ。一戦友としてナセル殿には聞いておきたいのです。この戦いについてどうお思いなのか」
「……」
ナセルは黙って、しばらく考えていました。
「やはり、今回の戦いは、避けては通れぬ道だったのだろう。人とドラゴンの憎しみと報復の歴史を思えば、双方のどちらかが滅びない限り、争いがなくなりはしないのかもしれん」
 さらに、彼は続けます。
「かつての我々はドラゴンを恐れていた。我々は弱く、彼らは強かった。彼らの爪と炎の前ではどんな武装も効果がなく、我々は彼らのなすがままだった。我々が築き上げてきたものがどれだけドラゴン達に奪われてきた事か。古の歴史はその憎しみの記録でもある」
 ナセルは馬の歩みを止めずに、後を振り向きました。セロムも同じく振り向きます。
「しかし、あれを見ろ」
彼が指差した先には、荷車に乗ったおびただしい鉄の武具がありました。
「我々が鉄を見つけてから全てが変わった。鉄があれば、彼らの爪にも耐える鎧が作れ、彼らの鱗を貫ける武器が作れた。我々は鉄を作る事に夢中になった。そのために森を刈り取り、大地をえぐり取った」
「まさしく、鉄を制するものが世界をも制す、ですな。ナセル公は製鉄の名人でもあられる。それゆえ、一目置かれた存在でいられるというわけだ」
「フフフ、製法は当家の秘法だ」
「失敬な。別に盗むつもりはありませんよ。興味はありますがね」
 セロムの言葉に、ナセルは笑いました。
「とにかく、我々が武装に汲々とするのは、恐れているからだ。異なる種族、異なる民族、異なる国を。我々は臆病であったからこそ強くなろうとし、そして強くなれた。だが臆病であるがゆえに、我々は何ものも信じることもできず、何ものも許す事ができぬ。今回の戦いもそこから生まれたものだと思える。失う事を恐れるあまりのな…」
「随分と悲観的なのですな」
「これくらいでなければ、この仕事は務まらんよ。軍人は戦うために存在する。戦わせるものがなければ何もしないものさ」
「兵法で言うところの、敵を知る前に汝を知れということですかな」
「まあ、そういうことだ」
 空はにわかに暗くなり、遠くで雷の音が聞こえます。
雨もぽつりぽつりと降り始めていました。
「や、これは降りそうですぞ」
「そうだな。一旦雨宿りをした方が良さそうだ」
程なくして号令がかかり、軍隊は散開して雨宿りの準備を始めました。

 森のそばに素早くテントが広げられ、人々はその中に入っていきました。
 雨はたちまち土砂降りになり、テントの天幕を早太鼓のように叩いてきます。
 二人は家来によって用意された椅子に腰掛け、軽く酒を飲み交わしていました。
「セロム殿、この辺りには古い都があったと言ったが」
「あくまで伝説上のことです。しかし、この地域で遺構が出るのも事実。それについては色々と不可解な事が」
「ほう、それは暇つぶしの一興になるな。聞かせてくれ」
 ナセルは葡萄を一粒口に入れて、ふんぞり返ってセロムの方を向きました。
「では、一講釈」
セロムは語り始めました。
「遺構が発見されたのはこの森の奥深く、カナナク山のふもとの、大きな沼のそばです。この沼というのは、かつては湖であったらしく、注ぎ込む川が枯れてから干上がったという話ですな。
 遺構は石造りで、上を巨木や苔に覆われていました。その木の年輪を見たところ。少なくとも1500年は下らないとか。つまり、その頃にはもうここは捨てられていたということです」
「なぜ、突然捨てられたのだ?」
「それは今となっては分かりません」
 そう言って、セロムは水を一口飲みました。
「ただ、それらの遺構は、何もかも大きすぎるのです。人が作ったにしては。だから、ドラゴン達の住むものであったと言う者もいます」
「今のドラゴン達からは想像もできんな……」
 そう言って、また葡萄を一口。
「その事についても一説あって、もともと彼らは、火も吐かず、空を飛ぶ事もなかったといわれております。魔法によって自らを変えてあのような力を得たとか。あくまで推測ですがね。そしてそれと同時に、人との諍いも始まったのだと。ここの遺跡は、そうなる以前の彼らが住まう都市だったのではないかと」
「歴史書で語られる伝説の古代都市ズードか。火のない文明を持ち、人間とドラゴンが共に住む都だったそうだな」
「そうです。しかし、そんなものが本当にあっては困るという者もおりますので」
「うやむやにされた、というわけか」

雨はだんだんと小降りになり、雲の切れ間からは青空が覗きはじめていました。
「発つぞ」
 ナセルが号令をかけると共にラッパの音が響き、それを聞いた兵士たちはすぐにテントを畳み、並び始めました。
「よく訓練されていますな」
「こういう遠征では質が問題だからな。選りすぐりの精鋭達だ」
「それは頼もしい」
 二人の馬もまもなく用意され、馬具が手際よく取り付けられていきました。
「ご苦労」
 ナセルは、ねぎらいの言葉を隊列の一番後ろまでかけて回りました。
 それに兵士たちが笑顔で応えていきます。それだけで彼の人望がいかなるものかセロムには良く分かりました。
 ナセルは、隊の先頭に戻ってくると黒い馬の手綱をもらい、彼が馬に乗るのを待っているセロムの方を向きます。
「先ほどの話の続きだが、その遺跡、やはり調べてみたい者は多いだろう」
「あの湖の砦も、別荘というのは方便で、本来はここ一帯を管理するためのものであったとか……。国の管理下におかれては、学者も盗掘者も容易に手を出せませんから。」
「なるほど、あとは森の中で朽ちるのを待つのみというわけだ。学者としてはつらいだろう」
「何事も数学のようにはいかない事は、これでも承知しておりますよ」
「兵法でいえば、勝つために真実が求められはしても、真実そのものに価値があるわけではない。政治も似たようなものだ。それを肝に銘じておけ」
 雨はもう上がって、水溜りが西日に反射してきらきら光っていました。
「さあ出発だ。夜までには着いておかなければな」
彼が馬にまたがろうとした時、伝令が彼の元へとやってきます。
「何だ」
 伝令のナセルへの耳打ちに、彼は頷きます。セロムは彼が何の話をしているのか気になりました。
「そうか、通してやれ」
「はっ」
「誰が来るので?」
 走り去る伝令を眺めながら、セロムはナセルに尋ねます。
「ジム…ワイハルトだ」
 ナセルは答えました。
「ほう、あの高名な鏡の魔術師ですか。なんでまた」
「あの島には、彼が封印したドラゴンが移されていた。おそらく、今回の戦いの直接的な原因になったものだ」
「やはり、気になるのですかな」
「おそらくな。私にも彼のやることは読めん。その封印の前ですら理解しがたい行動を取っていたからな」

 程なくして、ジムはロバを引き連れ、ナセルたちの下へとやってきました。
「ナセル殿、お目通り感謝する」
 ジムはロバの手綱を近くの兵士に渡すと、帽子を取り、ナセルに向かって深々と頭を下げました。
 彼は、深い紺色のローブを身にまとい、手には立派な杖を持っています。全身雨に濡れ、水のしみこんだローブは重そうに垂れ下がっていました。
「さて、こんな所まで来られるのだ。魔法使い殿も何か訳がありそうだな」
 きつく結ばれたジムの口元は、ゆっくりと開きました。
「ここへ来る間に、そなたの軍隊を一瞥してきた…」
「ならば、言うまでもなかろう」
「もはや、手遅れなのかもしれんな…」
 そう言うジムの目は憂いに沈んでいました。
「戦いはもう止められぬ。私も勅命を受けた身。翻意するわけにはいかぬのでな」
「もとより、そんな事は承知しておる。わしは先祖の命に従い、ただこの戦いを見届けるが為にここを訪れた。そして、ナセル殿にはその許可を受けにきたのじゃ」
「はて、許可とはまたおかしなことを聞く」
「ここに帯同する許可ではない。あの森へと入る許可じゃ」
 そう言うと、ジムは持っている杖で、湖のそばの森を指し示しました。
「おたくの兵士に邪魔をされたらかなわんでの」
 ナセルの顔が一瞬厳しくなります。しかしすぐに平静に戻り、言いました。
「分かった。好きにするがいい」
「感謝する」
 そう言って、ジムは再び頭を下げました。

ロバにまたがり、陣を後にする魔法使いの後ろ姿を眺めながら、二人はささやき合います。
「行かせても良いのですか?」
「構わん。いまさらどうすることも出来まい。むしろ貴殿も一緒に行きたかったのではないか?」
ナセルは口ひげをいじりながら、冗談めかして言いました。
「それはまぁ、興味はありますが。それでは任務の放棄ですから」
 セロムはあごを引き、神妙な顔をして答えます。
「行ってもいいのだぞ」
 ナセルの言葉に、セロムは驚いて彼の方を向きます。彼の表情は冗談ではない様子。
「この状況を変えられるのなら―――、私は彼が何をするのか、むしろ興味すら覚える」
 彼はそう言って笑った後、再び陣地の方へと目を向けました。