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ルルトは妖精に導かれるように、遺跡の奥へと進んでいきました。
妖精というのは、彼を助けてくれた光る子供の事です。背中に羽が生えた姿が、本で読んだことのある妖精の姿に似ていたので勝手につけた名です。もっとも、その羽はルルトの背中に生えているものと同じ、ドラゴンの翼でしたけれど。
その飛んでいく後ろ姿を追いかけながら、ルルトは自分の記憶を辿っていました。
どこかで会った筈なのに、思い出せない。
もう、人間であった頃のルルトの記憶はすっかりぼやけていました。
歩いていくにつれて、だんだんと彼らの周りを石の壁が囲んでいき、それはどんどん高くなっていって周囲の景色を覆っていきます。
それでも、ドラゴンである彼が通れるだけの大きさがあったので、窮屈ではありませんでしたが。
石造りの壁や床は苔やきくらげで覆われていて、まるで毛足の長いカーペットのように、彼の足を柔らかく包みます。
そこからちらりと覗く岩肌には、見たこともない象形文字がびっしりと書かれていました。
なんだろう?と彼は思い、それに目を凝らしてみました。
『火は使わないで』
妖精は彼にそう言います。ちょうど、彼は炎で照らしてみようと息を吸い込んでいたところでした。
妖精は心が読めるようでした。
言い伝えによると、妖精はあらゆる動物、植物、水や石とも心を交わす事ができる存在です。
というより、そういうものの心そのものから生まれている者です。
だから彼のそばにいる妖精は、彼の心が生み出したといってもいいものでした。
彼の心が生み出したものであると同時に、この場所が生み出したものでもある、という訳です。
やがて、木で覆われた小山が見えてきました。
そして、その小山は、良く見ると巨大な石造りの建物でした。
階段状になった外壁の上には太い木々が根を下ろし、その段々に寄りかかるように立っている無数の石像は苔で覆われ、その表情はうかがい知れません。
「ここは……?」
森の妖精が何も言わずに進んでいくのに耐えられなくなって、ルルトは呟きました。
『ここは、失われた都ズード……。ほむらの民の都』
「ほむらの民……?」
ルルトは、小山に立っている石像の一つを眺めてみました。
手に長い杖を持ち、長い尾を持った、直立の生き物の像です。
「ドラゴン?」
彼がそう感じたのも無理はありません。その姿は翼のないドラゴンのようでした。
『そう。君達のご先祖様』
森の妖精は彼を振り返る事もなく、小山に開けられた横穴へと入っていきます。
自分は生粋のドラゴンじゃないのに、と彼は言いたくなりました。妖精は心が読めるのだから、そんな事が分からないはずはないと思いますが。
『ほむらの民は、初めて火を見つけた人々だよ』
横穴を進んでいくと、大きな部屋へとたどり着きます。
そこの壁のそこかしこに、炎をかたどった壁画が描かれています。彼らにとって、火とは神聖なものだったのでしょう。
『そして、その火を盗まれて滅んでしまった……』
壁画には、その様子が描かれていました。大きい人と小さい人とが入り乱れて、炎を巡って戦っている様子です。
「でも、さっき、ご先祖って言ってたじゃないか」
『そうだよ。でも、そうでもない』
「訳が分からないな」
ルルトは長い首を傾げました。そして、何でこんな謎かけみたいな事しか言わないんだろうと思いました。
『ほむらは2つの民に分けられ、2つの民は変わってしまった』
森の妖精は一方的に話を進めていきます。
それから妖精の体は青白く光り、壁面のレリーフを浮かび上がらせました。
大きな炎を挟んで二つの人物が向かい合わせに彫られていました。
『君なら、できるかもしれないな…』
炎の右側には人の姿。
左側には先ほどのドラゴンの姿。
「二つの民って…、まさか…」
ルルトは目を大きく見開きました。
「古代種は世界を形作る言葉を知っていた。それが、魔法都市という別名の由来だと聞きます」
セロムは、ろうそくが揺らめく中でナセルに語ります。
「それによって力を手にした眷属、知を手にした眷属がいたと。そのどちらも火にまつわる事です。つまり、火を作る力と火を知る力」
「ほう、随分と詳しいな。古代の研究は御法度ではなかったか」
ナセルは鋭いまなざしで表情一つ変えず、セロムの話を聞いています。
「人は知る事を欲するものです。特に学者というのは知を貪る亡者のようなもの。禁じられても影を潜めるだけのことです」
「どこで知った?」
「アカデミーの伏流です」
セロムは何か決心したようにナセルに向き直り、続けました。
「世界の言葉を知ろうと思えば、古代種の文明について避けては通れません。そもそもこうやって鉄を作り栄華を極めたのも、その試みの中から生まれてきたものです。だから、これを知ることは鉄を作る上でも得るものが大きいと思いますが…」
「私を、誘っているのか?」
「無論、無理強いはいたしません。だが、我々も後ろ盾が必要なのですよ。そう思う仲間は多くいます」
「火は古代種の生活を変えました。火とは力そのものだからです」
セロムは続けます。
「そして、その力によって滅んだと聞きます」
「制御できない力は、災いのもとにしかならん。軍隊でも同じだ。我々の厳しい規律も、その力を御するために存在するのだからな」
「その後、火は二つの眷族に受け継がれ、彼らは現在まで争いを繰り広げているのです」
「竜と人、か…」
ナセルの言葉に、セロムは無言で頷きました。
「我々は、その争いの先端にいるという訳だな」
「今となってはもう引き返す事もできませんが…」
「戦いの理由はいくらでもある。過去の怨嗟などいくらでも見つかる。大衆はそれにばかり目をとられ、他に何ができるかを考えようともしない。その結果が今の状況だ」
「空しい事です」
「だが、私には竜と人とが和解する事など考えられんよ」
「私は思うのです。いま、本当に必要なのは、我々の想像を超えた未来を築ける存在なのだと」
「そうかも知れぬな」
明かりが激しく揺れて、二人の影が乱れます。ろうそくが尽きようとしていました。
「余興はこれくらいにしておくか…。明日は行動する日だ。何も考えず、勝利だけを目指す」
「……」
テントの明かりは消えました。
「人間と竜が共に暮らしていた時代があったなんて」
ルルトは壁画をまじまじと眺めていました。
その絵には人と竜が共に暮らす様子が描かれていました。
人は器用に道具を作り、竜はその力で労働をこなしています。
そしてその上に何者かが立っていました。きっと王のような存在がいたのでしょう。壁画は壊されてその姿は見えません。
「ほむらの民、か…」
ルルトは、鏡の中での自分の姿を思い出します。
太陽からは矢が放たれ、それが炎となって彼らの頭上に灯っていました。
『君と重なっているもう一人の君が、ずっと昔、ここに来た』
リシオンの事だと、ルルトは感じました。
『彼はここでこの事を知って、そして飛んでいった。君はどうする?』
「でも、こんな事、誰も知らないから…」
ルルトはそう言ってしゃがみ込み、途方にくれました。
「教えたって、誰も信じないよ」
『そう、誰も信じなかった』
どこからともなく声が聞こえてきました。
彼が振り向くと、広間の中央に大きなドラゴンが立っています。彼と同じ、真っ赤なドラゴンが。
『…私はここに来て、この事を知った。そして人と竜を和解させようとした』
「リ…リシオン…?」
その姿は、彼が鏡の中で見た竜と瓜二つ。そして、今の彼ともそっくりです。
『しかし、誰も信じようとはしなかった。いや、信じたくなかったのかもしれない』
リシオンはルルトの横に並び、壁画を見上げました。
『誰も見たいものしか見ようとはせず、信じたいものしか信じようとはしない。だから、世界は憎悪と誤解に満ち満ちている…』
そして、うつむき、うめくように声を震わせます。
『私は、孤独だった…』
彼の感情が、ルルトにも良く理解できました。程度の違いこそあれ、彼もリシオンも孤独だったのです。
鏡を覗いた時、彼にリシオンが取り憑いたのも、彼がリシオンに似ていたからでしょう。
あの時の彼は、友達が誰もいず、そして理解してくれる人もいなくて、孤独でした。
「僕も…孤独だった」
ルルトの中で感情が溢れ、彼の目からこぼれました。
ドラゴンは泣きません。彼の涙は光の粒子のようでした。砂のような、ガラスのような、きらきら光る粉でした。
妖精はその様子をじっと見ています。
彼は頬をぬぐいました。過去の事を思い出したとき、妖精の姿の主が誰だか分かったのです。
「ナール」
その名前を呟いて、彼は妖精を手の上に乗せます。
「たったひとりの、僕の友達…」
その時、妖精が笑ったように思えました。
ルルトの中で、彼女の記憶がとめどもなく溢れてきました。
彼女と共にいた数年間、彼は本当に幸せでした。
ナールは唯一、彼をちゃんと認めてくれる存在でした。ルルトは、彼と共にたくさんの冒険をしました。その記憶の数々は、今も彼の中で暖かい光を放っています。辛い思い出が多い分、それは一層強くなっているようでした。
ところが、ある嵐の夜に、彼女はいなくなりました。おそらく、決壊した川の流れに呑まれ、溺れてしまったのだろうと言われています。
人が死ぬ、という事を、初めて知った出来事でした。納得するまでに随分と時間がかかりましたけれど。
『やっと、思い出したかい。ルルト』
そう言って、その妖精は彼の鼻先に抱きつきました。
「会いたかった…」
ルルトは彼を包み込むように受け入れ、二人はそのまま抱き合いました。
そして、彼が目を閉じている間に、リシオンの姿は消えていました。
『君は、ひとりじゃない』
その声を残して。
気が付いた時には、朝日が差し込んできていました。
木の葉で黄緑色に色づいた光が、彼のいる祭壇をやわらかく包み込んでいます。
彼はついさっきまで眠っていたのです。
苔むした石造りの大広間に、今は鳥のさえずりが充満していました。あの妖精ももういません。
でも彼は、もう寂しいとは思いませんでした。
「人は死んでも、思い出の中で生き続けてるんだ。この森はそれを見せてくれたんだな…。もう寂しくないよ。みんながいるって事に気が付いたから」
彼は廃墟の外に出て、一番高い岩によじ登ります。空腹で力がなかなか出てきませんけれども、彼にはそうしなければならない目的が出来たのです。
「僕は行かなくちゃならない。今ここにいるひとと生きていかなくちゃいけない」
風は湖に向けて吹いていました。そしてそのそばには野営の煙が見えます。
彼は背中の翼を勢い良く広げ、その体勢で体を前に傾けました。風が翼の下にもぐりこんでくるのを感じます。
「僕にどれだけの事が出来るのか、まだ分からないけど」
森に咆哮がこだまし、鳥たちが驚き飛び立ちます。
次の瞬間、赤い竜は空高く舞い上がっていきました。