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その頃、ジムは遺跡の中にいました。
彼の足元を黒いクモのようなものが這いまわっています。
「夢食い虫か…。魂を運ぶ精霊の抜け殻。わしの心を食いにきたか」
彼の見聞によると、この遺跡はかつて、魔法都市の中枢だった所です。
遺跡の門らしき巨石には円形の図案と文字が彫られていて、それにはこう書かれていました。
心は力、力は心
火は怒りを、水は悲しみを
風は喜び、土は慈しみをあらわすもの。
互いに惹き合う表裏のもの。
まわる車輪のごとくうつろう。
古い魔法書の冒頭にある一節と同じものです。
ここは全ての魔法の発祥の地でもあり、故に禁忌とされた場所でした。
「火には水ではなく、風や土がいるのだ」
彼はつぶやきました。怒りを悲しみで消しても、それでは何も生まれないと思ったのです。
彼はひときわ大きい岩の傍らに腰掛け、ランタンの明かりを頼りに本のページを開きます。
この本は、かつて鏡の主が書いた遺跡についての記録でした。
彼がこの場所を知ったのも、森の中をここに来られたのも、この本があったおかげでした。
本は語ります、かつての魔法は今とはまるで違ったものだったと。
一言で言うと、心を動かす力があったのです。
今ではそれがどんなものかは知るよしもなく、ただ魔法書の冒頭の謎めいた言葉に名残を残すのみです。
鏡の主はリシオンを封印した後、生涯をかけてこの謎を追い求めました。今になってみると、彼がそうした気持ちがジムには良く分かりました。
「失われし友との約束、か…」
リシオンも鏡の主も、この場所を知っていたからこそ希望を持っていたのでしょう。かつて、人とドラゴンが共に暮らしていたこの場所を。
「それにしても疲れた…」
そう言うのも無理はありません。彼は今日一日、森の中をさまよって、ようやくこの場所にたどり着いたのです。
ヘッギーは彼のそばで足を畳んでうつらうつらとしています。
「今日は目的の場所にたどり着いただけでも良しとしよう。するべき事は明日になってからやれば良い…」
持参してきた食べ物と水を口に含んで、彼は寝袋を広げました。
『アキラメロ…アキラメロ…』
『オソイ…オソイ…』
周囲の物陰では夢食い虫たちがかすかな言葉で語りかけてきました。
この寒々とした風景を見渡して、ジムはため息交じりで呟きます。
「これが伝説に名高い魔法都市の成れの果てとはな…伝説にあるほどの素晴らしい所であったのなら、なぜ人はそこを立ち去ったりしたのだろう」
大きな岩がゴロゴロと転がり、この辺一帯だけはなぜか草木も生えません。かつての住人が大地の精を吸い尽くしてしまったからだとも、鉛の発見によって土が汚れてしまったからだとも言われています。
「人は、自らの手で楽園を壊してしまったのかもしれん。追われたのではない。楽園に耐えられなかったのだ…」
その後に始まる血塗られた歴史こそ、人が望んだ世界だったのかもしれない。なぜ?
それは、人が力を欲したから。強くなりたかったからだ、と。
人は、楽園に生きるか弱い従畜でいるより、己の手で世界を切り開く猛々しい獣でいることを望んだのです。
それが、人としての誇りなのだと、彼は結論づけます。
彼は自問自答を続けます。
自分がここに来たのは、人々を、ドラゴン達をまた楽園にいざなうためだろうか…?
再びおとなしい従蓄となって留まり続けるよう仕向ける為に?
「いや、違うな」
彼の中の何かがそれを拒絶しました。
「今のわしには分かる。ドラゴンは風を求め、人は力を求め、ここから立ち去ったのだ。その身に炎を携えて…」
古代都市の崩壊について定かな言い伝えはありません。しかしそれは人とドラゴンが争ったからというのではないのかもしれないと、彼は考えるようになっていました。
古代都市は完全であるがゆえに崩壊せざるを得なかったのだ、と彼は考えたのです。
「完全とはすなわち、静止しているのと同じじゃからの。生ある動く者には耐えられぬのだ」
それから彼は、再び魔法書の一節を思い出します。
「生々流転、車輪のごとく回りながら、世界を踏み潰していく。それが人の性というものか」
それから、鏡の主の杖を撫でて、自嘲っぽく笑いました。
「それにしても、かつて壊した楽園の力を借りて、新たな事を為そうとは皮肉なものじゃ」
それからランプの明かりを消し、彼は寝袋にくるまります。
周囲の遺跡は闇に没し、やけに明るい星空にシルエットとして浮かび上がります。
それを見ていた彼の視界を青白い光が横切りました。
「おや?」
『ようこそ』
光の主は彼の頭の上で止まり、宙に浮かんだまま彼の顔を覗き込んできました。
小さいその姿は、彼の住んでいた村のとある少女に似ていました。
「やはり、まだ生き残りがいたか…」
その青白い光に照らされた彼の顔に、笑みから皺が浮かび上がります。
『遠くで、火が燃えている…』
「ん?」
光の主は、西の方を指します。
魔法使いは立ち上がって岩をよじ登ります。その光も彼についていきました。
それから西の方へ目を凝らします。
その先には、湖に浮かぶ砦が見えました。そのシルエットからわずかですが火が染み出しているのが、彼の目にもはっきりと分かりました。
「火事か…」
「早く消化しろ!」
砦ではセバルーの怒声が響きます。ドラゴン達は慌しく駆け回り、適当な入れ物に水を汲んで火に浴びせかけました。
出火を見つけたのはルルトでした。
幸い、火は倉庫を半分焼いただけで鎮火し、大事には至りませんでした。
「犯人は捕まえたか?」
「もう逃げてたよ」
ルルトは付近に落ちていた油入れをセバルーに見せます。それは間違いなく人間のものでした。さらに、砦の裏には乗り捨てられた小船も見つかっています。
「見張りはどうした」
ルルトは何も言わずに顔を横に振りました。
「そうか…」
見張りが無事ではない、という事をセバルーも分かったようです。
「まさかこんな夜中に襲ってくるなんて」
「食料は無事か?」
その言葉に、ルルトの顔はさらに曇ります。
「半分以上燃えてしまった…。はじめからこれが狙いだったのかも」
「油断していたな…やはりあちらの方が戦術も上手のようだ」
今にして思えば、対岸がやけに静かだったのも、こちらを油断させるための戦術だったのかと、ルルトは思いました。
あの黒い馬の上に悠然と乗っていた男の人。彼の威嚇にも少しも動じなかったあの人。
そして、こんな作戦を指揮する人。まるで鉄のような人。
あの人を倒さない限り、この戦いが終わらないのかと思うと、彼は心臓がきゅぅと締め付けられるような気がしました。
彼ははっきりと、怖くなったのです。
岸から這い上がってきた数人の人影は、物音をたてることもなく陣地の中へと消えていきました。
彼らは、着替える事もなくナセルのテントの前へと滑り込んでいきます。
テント入り口から明かりが漏れ、ナセルが彼らの前へと出てきました。
「ご苦労だった。今日はもう休め」
ナセルは彼らをねぎらうと、再びテントの中へ戻っていきます。
中では、セロムがチェスの駒をつまみながら、驚きの表情で彼を見ていました。
「フフ、驚かせてすまない」
そう言ってナセルは、チェスの置かれたテーブルの傍に腰掛けました。
「一体、こんな夜中に何をしたんです?」
「戦いを早く終わらせるための細工だ。正面から攻めていても時間と人員の浪費にしかならんのでな」
「しかし、やる事が手厳しいですな」
セロムは手に持っていた駒を盤の上に置きました。
「そうかな?私は双方にとって最も被害の少ない手段を選んでいるつもりだが」
「しかし、戦争に慣れていらっしゃる。さすが軍人、と言わざるを得ませんな」
「戦争は手段であって目的ではない。可能であれば血を流す事もなく勝利できれば良いのだ」
ナセルは駒を一つ動かします。
「勝利、ですか」
「それが、あらゆる争いの源だ」
「争いがあるがゆえに勝利を求めるのではなく、勝利を得るがために争いを生み出す、というわけですか…」
「そういうこともある。ちょうどあのドラゴン達のようにな」
「我々学者には、真理こそが全てだと思っている者も多いですがね」
「学者は真理の為に鬼になり、軍人は勝利の為に鬼になる。芸術家は美の為に、商人は金の為に。この世はそういう鬼ばかりだ。だから鬼にならねば生きていけぬ」
セロムには返す言葉がありません。
「これで詰みだ」
ナセルはチェスの駒を一つ進めて言います。
「いやはや、参りました」
セロムは頭をかきながら苦笑します。もとから彼に勝てるとは思ってもいませんでしたけれども。
「さて、寝る前に、私はこれから外に出る。ついて来るかな?」
ナセルはその場を立って、テーブルの上の望遠鏡を手に持ちます。
「喜んで」
セロムもそそくさとマントを羽織りました。
二人は明かりも持たずに湖の岸まで歩いていきます。
そこからナセルは望遠鏡で湖の砦の方へと目を凝らしました。
月明かりのもとでも、砦から立ち上がっていた煙はほとんど確認できなくなっていました。
「どうやら消火も終わったらしい。あとはどれくらいの損害を与えたかだ」
湖から夜風が二人の方へと吹いてきます。二人のマントがなびきました。
ナセルは望遠鏡をセロムに渡しました。セロムは興味深そうにそれを覗きます。
覗いた先から、建物の縁にドラゴンが止まっているのが分かりました。
「さすがに警戒が厳しくなっておりますな」
「それも狙いだ。警戒に力を割かせれば、相手の消耗も早くなる」
「それにしても、昼間あれだけ兵が傷付いたというのに、冷静ですね」
「感情で戦をやるのは愚か者だけだ。それに、勝つ事だけが弔いになる。もう行くぞ」
セロムの指摘に少しむっとしたのか、ナセルは早足で引き返します。セロムもそのあとを追ってテントへと戻っていきました。