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思わぬ打撃を受けた彼らにとって、再び降り出した雨はむしろ救いでした。
雨と共にあの火を噴く筒が黙り込んでしまいましたから。ドラゴン達も火を使えなくなりますが、腕っ節だけならまだ勝ち目はあります。
翼が傷付き、飛ぶ力をなくしたドラゴン達は一人、また一人と地上に不時着し、泥まみれになりながらなすすべもなく囚われていきます。
残った者達は再び編隊を組み、槍による突撃を繰り返しました。しかし、戦い方を学ばれたとあっては、かつてのような戦果はなくなっていました。
雨は激しく降り、ドラゴンも人間も泥まみれになって奮戦しました。身に張り付いた泥で、あたかも双方が一体の怪物となって蠢いて見えるほどに。
合戦は徐々に人間側が優位になり、ドラゴン達は湖のほうへと押し戻されていきました。
やむなくドラゴンたちは砦へと逃げ込み、篭城に入りました。
時は夕刻。雨は既に上がり、茜色の空から差し込んだ光が戦場を照らしていきます。
それは、泥で黒々と光る平原におびただしい数の死体が転がる、無残な光景でした。
「終わりじゃ。もう終わりじゃ…」
アローエンはさめざめと泣き、空に向かって咆哮しました。散っていった仲間たちへの鎮魂歌のように。
城に戻ったルルト達は骨の髄まで疲れきり、泥まみれになった体を洗おうともせずに思い思いの場所にへたり込んで、浪々と響き渡るその声に聞き入ります。嗚咽する者、倒れこむ者、そしてアローエンに呼応して咆哮する者…。
ドラゴン達の悲しい響きが、戦場の物言わぬ骸たちを包み込んでいきました。
「悲しい声ですな」
セロムはまるで高みの見物、といった調子で感想を述べます。
「負けた者は、ああするしかあるまい」
ナセルは表情一つ変えずに言います。
それは何も感じないのではなく、湧き上がる様々な感情を押しとどめている顔であることは、セロムにも痛いほど分かります。彼の目はとてつもなく悲しんでいましたから。
一度でもいいから彼の本心が聞いてみたいと、セロムは思います。きっと、彼はこの戦いの不毛さを誰よりも深く理解しているであろうから。
軍人とは行なう者です。やれと言われればやるしか無いのが現実でした。それに比べれば学者というのは好きに物が言えて気楽なものだと彼は思います。
彼らの横を鎖で縛られたドラゴン達が連行されていきます。なるべく殺さずに、というのがナセルの命令だったのでしょう。
連行されていくドラゴン達は口に猿ぐつわ、両目は目隠し、そして両手両足に枷をはめられた姿で歩いていました。どれも傷付き、泥まみれで、痩せたみなしごの子犬のような表情をしているものばかりでした。
セロムは、こんなにしょげ返っているドラゴンの姿を見たのは初めてのことです。
「せめて命だけは、ですか」
「それは相手の大将次第だな」
「では、取引をするわけですか」
「こちらも損害を出しているからな。死んでいった兵士にも家族がいる。残った者をなだめる為に、それなりの代償を求めねばならん」
竜砲の使用は、味方の方にも少なからず混乱を与えたようです。ほとんど全ての馬が驚きの余り使い物にならなくなっていました。
「あとは、あちらが交渉に応じるまで追い込むだけだ」
ナセルはそう言った後、しばらく口をつぐんでしまいました。
日が暮れても、砦の中はやけに静かでした。皆一様に疲れきって動こうともせず、その場にへたり込んだままでした。
誰もが昨日からろくに睡眠もとれずひたすら戦い続けた為に、体も心もすっかり擦り切れていました。
「強いな。こうも強いなんてな…」
セバルーは心の底から笑いがこみ上げてくるのを感じました。初めからこうなる事はうすうす感じていたのでしょうが、ここまではっきりと目の前に突きつけられると、この間までいきがっていた自分達が滑稽にすら思えるのです。
「結局、全ては我々の無知さゆえ、だったか…」
ヴカームは片方の翼を折った姿で、セバルーのそばに座り込んでいます。自慢だった鎧もジャガイモのように傷付き凹んで、見る影もありません。
もはや精神力などではどうしようもない程の差だった…。そこにいる誰もがそう思ったに違いありません。
「こうなったら、篭城するしかない」
セバルーは皆に提案します。
幸い、ここは湖の孤島。地の利はあります。
もちろん、敵もその事は良く分かっていたから、彼らの食料を焼いたりしたのでしょうが。
ルルトは物見の塔の上に降り立ち、戦場を見つめていました。
夕日に染まる森から吹いてくる風が、血のにおいを運んできます。彼はその場で胸をかきむしりたくなるような悲しみをじっとこらえて立っていました。口はきつく結ばれたまま。
自分がこれから何をやるべきか想いをめぐらせていました。もうこの戦いを続けても意味はないと思いました。しかし彼は大将です。そんな事を自分から言えると思ってもいません。
でも、これ以上仲間が倒れていくのも見たくないし、彼にとっては何の利害もない人々が殺されていくのも見たくはなかったのです。
『ごめん、みんな…』
自分はやはり、リーダーになるのに向いていないんだと、彼は考えます。こんな事を考えるような奴が皆を率いていくなんて、と。
自分の迷いの為に傷付き倒れていった者もいたかもしれないと思うと、胸がえぐられるような思いでした。
そして彼は大声で叫びました。胸の奥から搾り出すような長い咆哮を。それはとりでの隅々にまで響き渡り、多くの仲間が呼応しました。
『もう、迷わないよ』
彼にはある決心が生まれていました。
ドラゴン達の咆哮は、ナセル達の陣地だけでなく、森の奥まで聞こえてきます。
魔法使いはその声で、雌雄が決した事を悟ったのです。負けたのはドラゴン達に違いないと分かりました。
「失われし都の記憶を持つものよ、そろそろ出てきてはくれんか…」
空には夜の帳がゆっくりと降りてきて、あたりは紫色に沈んでいっていました。
魔法使いは、昨夜出会った精霊が、現存するミュースであるという確信がありました。
ミュースとは、心に働きかける力を持つ太古の精霊です。記憶や思いを蓄え伝える力があるといわれていました。時には人に天恵を与え、時には人を惑わす、心の力をつかさどる魔法体です。
ここで今も生きているミュースとはつまり、都市が滅んで数千年、都市で生きた物の記憶を持つものです。
彼が求めていたものはまさにそれでした。
それを増幅し、鏡の中に封じ込め、世界に向けて解き放つ…。
そうすれば、鏡の力で世界の姿すら変えられるでしょう。
「わしにもようやく、この鏡の本当の力がわかってきたわい」
魔法使いの手元では、黒い光をたたえた鏡がありました。
おそらくこれも、この遺跡のように長い時を経て掘り出されたものなのかもしれません。
やがてあたりはすっかり暗くなり、闇に包まれた遺跡はざわめき始めます。夢食い虫が再び這い出てきたのです。
それでも、魔法使いは火をつけませんでした。火は夢食い虫を遠ざけますが、同時にミュースも遠ざけます。なぜなら、この二つは同じものだからです。
蓄えていた感情や記憶を失ったミュースが、人の記憶や感情を求めてさまよう姿に変じたのが夢食い虫でした。そして今の彼にはどちらも必要なものでした。
カサカサカサ…
草や岩の陰から、黒い一つ目の小さな虫が次々と這い出てきます。
「来たか…」
魔法使いはすっかり夢食い虫に取り囲まれていました。何も知らないヘッギーは肝を潰して、いななきながら身をよじって体に付きまとう夢食い虫を振り落とそうとしていました。
その中から一つ、光を放つ虫が飛んできます。
『望みを叶えたいか』
もう魔法使いの心は読まれたようです。
ミュースは本来心を持たないものです。しかし、蓄えた記憶や感情が、ミュースをまるで意思を持った生き物のように振舞わせるのです。
魔法使いは素早くかごを振り回し、それを捕まえました。
「お前の力を借りるぞ…」
魔法使いが大岩にかぶせていた布を取り払うと、そこには魔法陣が描かれていました。
「魔方陣は魔法の砂で描かねば効力を発揮せぬ。わしはお前がこの砂と同じような組成を持っておると考えている」
彼は魔方陣の中央にミュースの入ったかごを吊り下げ、詠唱に入ります。
詠唱の言葉が進むうち、魔方陣を描いていた砂はミュースと同じ青色に光り始めました。
「そら、来たぞ」
魔法使いが儀式に大岩の上を選んだのは、ここが遺跡で最も見晴らしがいい場所だからです。当然、この魔方陣から発する青白い光は遺跡の隅々にまで届き、あるものを誘い出します。
岩の陰、枯れ木の下、沼の中から、おびただしい数の夢食い虫達が、この大岩をめがけて奔流のように押し寄せてきました。たちまち、無数の赤い目で魔法使いの眼下は覆い尽くされました。
『こんなに集ってしまったら、もう僕の力ではどうしようもない』
ミュースはかごの中から魔法使いに忠告します
「もし、わしの仮説が間違っていれば、わしはこやつらの手によって狂い死にするな…」
魔法使いは額に冷や汗を流して笑います。
やがて夢食い虫達は岩を這い上がます。そして魔方陣の縁に触れた時でした。
それまで光を持たなかった虫達が、魔方陣と同じ青い光に包まれます。次々に押し寄せる虫達は同様に、魔法陣に触れたとたん青く光り始め、その場から宙に巻き上がっていきました。
「やはり、こういう事だったのか…」
魔法使いは安堵交じりの声を上げながら、その光景を見て目を細めました。巻き上がる虫たちの光によって周囲はどんどん明るくなっていきます。
「まだまだ足りん!この世界を覆いつくすほどの光が必要なんじゃ」
光の圧力に震えながらも魔法使いは儀式の手を休めませんでした。魔方陣を中心に巨大な光の柱が生まれ、その光は森を明るく照らします。
おびただしい光り輝く虫達は魔法陣を中心に渦を巻くように飛び交い、その風圧は魔法使いの衣を激しくはためかせました。
「鏡よ、その真の力を見せよ!」
魔法使いは光の渦の中に鏡を投げ入れます。