2章 犠牲



 厚木。
 かつては防衛論争で問題になったこの基地が、今では関東周辺の抵抗の拠点として重用されているのは皮肉な事だ。
 襲来甲の降来は、それまでの価値観を一変させてしまった。
 厚木には飛行場があるが、今ではあまり使われていない。そのあちこちに襲来甲の残骸が横たわり、ここがいかにして守られてきたかを無言の内に物語る。
 戦車部隊で損害を省みずに突撃すれば、ヒドラでも何とか倒せる。そう言ったのは谷古田だった。
「その戦いがあったのが2ヶ月前だ」
 襲来甲の側としても、ヒドラが倒されるのは戦略的に堪えるらしく、その大きな戦闘の後は襲撃も小規模になった。
 この地域で、気兼ねなく電波を使える数少ない場所だった。

「俺だ。中に入れてくれ」
 幾重にも補強を施された鉄の柵を前にして一行は止まり、駆け寄ってきた兵士に谷古田は身分証明証を見せる。
 証明証を確認すると、若い兵士は急に背筋を正し、敬礼のポーズをする。
「何だか慌ててるね…」
 その様子を後ろから見ていた未羽が、首をかしげて言った。
「谷古田さんって、そんなに偉い人なのかな?」
「だと思うよ。香月も言ってたし」
 コウが答える。
 彼曰く、谷古田は防衛庁の高級官僚だったらしい。
 門が開き、二台の車は再び動き出す。

 一行は門をくぐり、大きな小屋の前で再び車を止め、灰色の制服を着た女性士官の前に呼び出された。
「ここから先は、民間の方が入る事は出来ません。例えそれが谷古田一佐のお知り合いであってもです」
「ちぇっ、つまんない」
 アヤが残念そうにぼやく。
「まぁそう言わずに。ある物だけでも楽しんでけ」
「入れるのは中央の建物だけです。ここは民間に開放されています。武器や食料の配給といった事は全てここで可能です」
 そう言って、仕官の女性は門の正面にある建物を指差した。
「ただし、車はここに置いていってもらいます」
「分ったか?」
 谷古田がこちらを振り向き、念を押した。
「は〜い!」
 アヤは無邪気に手を上げて返事をし、他の二人もうなずいた。
「よろしい。では解散」
 谷古田は皆に告げる。

「コウはこっち来い」
 谷古田はコウを捕まえる。
「先に行ってるからね〜」
 アヤと未羽の二人は手を振ってきた。
「うん」
コウもそれに応えて同じ仕草をする。
「分ってるだろ?」
 谷古田が言うと、コウはうなずく。
「あなたには身体検査を受けてもらいます」
 女性仕官は事務的に言った。
「専用の施設があるところまで案内しますので、ついて来て下さい」
 コウは谷古田と分かれた。
「あとで迎えに行くから」
 去り際に、谷古田はそう言った。



 案内された場所は、病院のような白い建物の中だった。
 そこに入ると、まず彼は体を洗うように命令された。
 久し振りの風呂は気持ちいい。浴場の中には彼一人しかいなかった。
 体を乾かし、そのあと白い衣服に着替えさせられ、さらに奥へと案内される。

 その大きな部屋の真ん中には、検査機器が設置されていた。
 その巨大なチューブのような機械の内側は黒いガラスで覆われていて、その中に無数の赤や青のライトが配置されている。
 周囲に配線が伸び、他の部屋と接続されていた。
 身体検査と聞いて、学校でやるような簡単なものだと思っていた彼は少々面食らう。
 検査機械の中央には手術台のような小さなベッドが置いてあり、彼は衣服を脱いでそこに寝かせられた。
 二人の青い服を着た作業員が、ベッドについていたベルトをコウの体に手早く巻きつけ、彼は固定された。
 そして、頭に配線がたくさんついた鉄のヘルメットをかぶせられる。
「今から検査を始めます。体を楽にしていてください」
 チューブの両端が蓋で閉められ、コウの周囲は真っ暗になる。
 それから、チューブの壁面にさまざまな色の光の輪が現れ、彼の体はそれを次々とくぐっていく。
 それを見ているとだんだん眠くなり、彼は目を閉じた。

「ねぇ、もう別れましょう…」
 どこからか声が聞こえる。聞き覚えのある声。
「もう、コウキも大きくなったし」

 ピシャッ!

 頬を叩く音。そしてか細く甲高い、すすり泣く声。
「かあさん……」
 コウは夢うつつにつぶやく。
 父親はいつも疲れ果てていた。ぼろぼろになるまで働いて、家ではいつも眠っている。
 布団から覗く白髪交じりの頭が、彼に残っている唯一の父の面影だった。
 自分もいつかはこうなるんだろうと、彼は漠然と考えていた。
 それが嫌で、音楽を始めた。

「下手だな。3コードだけかよ」
 香月の声。
「俺がギターやってもいいが、バンドの要はドラムだからな」
 演奏している間は楽しかった。香月の家の風呂場を借りてセッションをした。
 ベースは?
 居たり居なかったり。担当の岸はあまり本気じゃなかった。

「今日はまだ時間があるから…」
 目の前に、見覚えのある少女の顔。
「未羽…」
 コウはつぶやいた。
 冬の学生服姿の彼女は恥ずかしげに顔を赤らめる。汗臭いマットの臭いが鼻をくすぐる。
「ここなら、見つからないよ…」
 コウは口付けをした。甘いブルーベリーの味。彼女が舐めていた飴の味。彼女は驚く。
 コウは彼女のシャツの下に手を入れた。
 手に感じる、暖かい彼女の体温と、柔らかい乳房の感触。
 早くなっていく彼女の鼓動が聞こえる。
 息が白く残った。

 どこからともなく轟音。
 振動。振動。振動。二人はもみくちゃにされる。
 周囲の物が崩れ落ちてくる。彼女に覆いかぶさり、抱いたまま気絶。
 再び気が付いて外に出ると、街は火の海だった。
 いく筋の黒い煙が天に昇り、その背後に白い石板がそそり立っていた。
 街には見たこともない異形の金属の化け物が這い回り、その中心に丘のように大きな怪物がいた。
 それは何本もある首を振り回し、全身からオレンジ色のレーザーを放射し、街を焼き尽くしていく。
 コウの両親がいた街。未羽の両親がいた街。それが目の前で見る見るうちに破壊されていった。
 二人はなすすべもなく見ているしかなかった。

 二人は廃墟になった街をさまよい、壊れた店から食べ物を取って食べ、建物の片隅で固まって眠った。
 季節は冬。つらい時期だった。
 国の機能は麻痺し、救援は来なかった。日本中がこうなってしまったらしいと、風の噂で聞いた。
 3ヶ月ほど放浪したあと、二人は奇妙な一団に会う。中高生ぐらいの子供を対象として武器や食料を配る集団だ。
 その首領が谷古田だった。
 始めて会った時の彼は、アーミーの服を着ていた。他にも軍服を着た人間がいたと思う。

「お前、名前は?」
 威圧感のある谷古田の声。初めて会ったときの彼は何だか怖かった。
「銃、使えないのか。教えてやる」
 谷古田は、彼があったどんな学校の先生よりも親身になって教えてくれた。武器の使い方、車の動かし方。
 そしてゴーグルを渡され、彼はハンターとなった。

 そしてコウは狩り始めた。
 どこにも行くところがない未羽は、彼が世話をした。
 廃墟ばかりとなった東京は、去る人はいても来る人はほとんどいなかった。
 誰にも頼る事が出来ない二人がハンターになるのは、生きていく為に当然の事だった。
 中学の頃バスケットをやっていたからだろうか。ゴーグルの助けを借りると、コウにはクビカリの動きが手に取るように読める。
 ゴーグルはクビカリの動きを色で表してくれる。近付く部分は赤く、遠ざかる部分は青い。速い部分は明るく、遅い部分は暗く見える。
 クビカリはフェイントなどをしないから動きを読むのはたやすいと思った。
 相手の攻撃をかわし、動く先に向けて銃を撃つ。
 防御できないクビカリの頭部に直撃し、機能は停止する。

「橘さん……」
 女性仕官の声でコウは目覚めた。
 どうやら検査の途中で眠って、夢を見ていたらしい。
「精密検査は終了しました」
 何だか体に力が入らない。
 頭にはめられていたヘルメットのようなものは外されていた。
 奇妙な夢だった。鮮明な、記憶だけの夢。

「脱力感はすぐに治りますから」
 看護士の男の人に抱き上げられて、どうにか立った。
 その人の言うとおり、すぐに体はいつも通りに動くようになる。
「結果は谷古田一佐にお渡ししますから。あなたはここを出て中央の建物でお待ちください」
 女性仕官は感情のこもらない声で言った。
 彼のそばに着替えが運ばれて来る。
 いつもの服。よく見ると汚れが落ちてきれいになっていた。いつの間に洗濯されたんだろう?それとも彼の眠っている時間が長かったのか。

 外に出ると、もうすっかり日が暮れていた。
 コウが中央の灰色の建物に入ると、未羽とアヤがアトリウムで待っていた。
 二人とも風呂に入って体を洗い、そして着替えていた。
 アヤは緑のTシャツと黒っぽい細身のデニムのズボン、黄色のスニーカーを履き、未羽は青の斜めチェックのYシャツとショートのデニム、そして赤いスニーカーといういでたちだった。
 どれも卸したての新品だった。
「いったいどこで……」
 コウは驚いてその姿をまじまじと見る。
「ほら、昨日のデパートで…」
 未羽は苦笑いする。
「あたしのコーディネート」
 アヤは得意げに胸を張る。
「あの服じゃさすがに恥ずかしかったから…」
 未羽の服が、クビカリのレーザーによってぼろぼろにされた事を思い出す。
「傷は大丈夫?」
「うん。ちゃんと手当てしてくれたよ。お風呂も使わせてくれたし」
「混浴だったけどね!」
 アヤは顔をしかめて舌を出した。未羽は顔を真っ赤にした。
「そうか…見られたんだ…」
 コウはつぶやく。
「そうそう。大サービスしちゃった」
 アヤは屈託なくケラケラと笑う。

 三人は食堂で夕食を食べた。
 谷古田の計らいで兵員と同じものが食べられた。
 食べ方はバイキング方式で、各自好きな物をお盆に入れて食べる。
 近くに海があるおかげで海産物が手に入るらしく、魚介類のフライや煮物などがおかずとして選べた。
 他は、保存のきくハムやソーセージ類、パンやビスケット、白米などだった。
 野菜だけは流通ルートが寸断された影響か、少し寂しい品揃え。

 三人の食事の運搬はアヤが買って出てくれた。自分で選びたいというのもあるようだが。
 このご時世ではもうダイエットなどとは言ってられないようで、アヤはたくさんのフライ、大盛りのご飯を選んで持って来た。あんまり山盛りで、盆を持った彼女の顔が隠れそうな程だ。
「こ、こんなに一杯、食いきれるかな…」
 コウは少し圧倒される。
「ちょっと、がっついちゃった」
 アヤは舌を出して笑った。
 白いご飯というのは随分久し振りな気がする。箸を使って口に運び、ほおばった。ほっくりと暖かく、ほのかに甘く、美味かった。
「こんな時ぐらいだもんね。お米のご飯が食べられるの。ずっと食べてないと食べたくなる。あたしも日本人だなぁ」
 向かい側に座ったアヤは言う。
 水があまり使えない首都圏では、飯盒でご飯を炊いても後始末が大変だった。結果、次第に手間のかからないパンやビスケットに人気が集まってしまう。
 それに、食事がご飯だけでは物足りない。だが献立の品目を増やすのは大変な事だ。白米と縁遠くなるのも致し方ない事だった。
「谷古田さんが戻るまでまだ時間があるみたいだけど、どうする?」
 コウは話題を切り出した。
「コウ、私に銃の使い方教えて。あとゴーグルも」
 未羽がコウのほうを向いて懇願する。
「あ、あたしにも」
 アヤが付け加えた。
「いったい、どうしたっていうんだ?」
 コウは箸を止めて、驚いた様子で言う。彼女からこんな事を聞いたのは初めてだ。
「二人で相談して決めたの。あんたたちがいなくても自分達の身ぐらいは守れるようにならないといかんと思ったから」
 アヤが食べ物をほおばりながら言った。
 そして水を飲んで、口の中の物を胃に流し込む。
「昨日みたいなことがあっても大丈夫くらいにはならなくちゃ、一緒に行けないし」
「谷古田さんならきっとそう言うと思う。足手まといはいらないって」
 未羽が付け加えた。
「それに、私だって、戦いたいから…」
「あたしも、このままじゃ未羽に料理番取られて存在感なくなっちゃうからさ」
 アヤも言う。
「…だから、教えて!」
 未羽はコウの手を強く握った。
 コウは未羽の言葉に面食らっていて、少し呆然としていたが、すぐ我に帰る。

「いいよ…もちろん!」
 コウは彼女の言葉が嬉しかった。それだけで十分だった。

「アヤ、ありがとう」
 コウはアヤに礼を言う。ずっと言いたかった言葉だ。
 彼女がこれだけ元気を取り戻してくれたのも、アヤの存在あっての事だとコウには分っていた。彼には、彼女の本当の望みが理解できなかった、という事も。
「へ?私、何かした??」
 アヤはご飯をほおばりながらきょとんとした。
 二人は大いに笑った。

 射撃場は地下にある。
 使える銃の種類は限られているが、コウが愛用しているP220は最もありふれた銃だから、別に困る事はない。
 一般の人にもここが解放されているのは、自分の身は自分で守れという政府の意思でもある。
 ただし弾薬は貴重なのでそんなに撃たせてもらえない。管理人は渋い顔で恩着せがましく弾を提供していた。
 しかし、基地の入り口でもらったパスを見せると態度が一変した。やけに積極的に武器弾薬の提供をしてくれるようになる。
「こういうのって気持ちいいよね」
 アヤは高笑いをする。
 9ミリ銃に限り、弾薬は使い放題になった。

 練習の内容は、数メートル離れた的を撃つのが基本だった。的の距離は手元のボタンで移動でき、また上下左右に動かす事もできる。
 そして足元を不安定にぐらつかせながら撃つ事も、ルームランナーのように走りながら撃つ事も出来た。
「最初は肩に顎を乗せて固定して打たないと照準がぶれる。基本が出来ないと駄目だ」
 コウは未羽に手取り足取り教えていた。
 彼女はどうしても引き金を引く時に手がぶれてしまう。力のない女性がよく抱える問題に直面していた。
 アヤは未羽よりずっと上手い。だから必然的に未羽へのレクチャーが多くなってしまう。
 彼女は二人のそばで手持ち無沙汰に練習していた。ただ的を撃つだけではもう張り合いがない。
「一回これやってみたかったんだよね…」
 ふと、彼女は谷古田が使っているのと同じサブマシンガンを手にする。谷古田の様子を見ていたから、使い方はとうに知っている。
「くらえぇぇ!!」
 彼女は目を開いて腰を落とし、的に向かって機関銃を乱射する。
 射撃場を破裂音が覆い、薬きょうが周囲に散乱する。
 的は粉々にちぎれ飛んでしまった。
 彼女は引き金を戻した。

 射撃場にいた他の人々は皆、目を丸くして彼女の方を見ていた。
 中には持っていた銃を落とす人も。
 もちろんコウや未羽も。

「ふぅ…最っ高……」
 アヤの声だけが射撃場に響く。
「ご静聴。ありがとうございまーす」
 アヤは皆に手を振った。
「あの…、ど、どうか気にしないで…」
 コウは皆に平静を促した。

「やりすぎだよ。もったいないな」
 コウはアヤから機関銃を取り上げる。
「だって、せっかく使い放題なんだからいいじゃん」
「すっごい気まずかった…」
 未羽は苦笑いした。
「アヤ、男だったら良かったのにな…」
「レディが強くてなぜわるいっ!」
 アヤはむくれる。
「別に、悪くはないけどさ…」
 やれやれ、とコウは頭を掻いた。
 アヤは指を立てて力説する。
「だいたい、これくらいできなきゃあの凶悪エロオヤジのお守りはできないっすよ」
「だーれが凶悪エロオヤジだコラ」
 アヤの背後から谷古田の声がした。
「あ」
 拳骨の音。
「谷古田さん」
「よう、向上心があってよろしいな皆の衆」
 アヤは拳骨を食らった頭を押さえていた。
「ま、同行してもらわにゃならんから、足手まといにならないように努力するのはいい心がけだ」
「これからの予定を教えてください」
 コウは谷古田に尋ねた。
「明日、神里の所へ行く」
「青木ヶ原…」
「そうだ。…ただ、あいつの所には部外者が泊まる場所がない。だから、近くの寺に泊めてもらう」
「道明寺か…。いつもの所じゃん」
 アヤは言う。
「それから…」
 谷古田はコウに一枚の紙を渡した。
「健康診断の結果だ」
 紙には血液の成分や体脂肪率、BMIなど、ありきたりの事が記入されていた。
「健康的には問題ないって事だ」
 コウは浮かない顔をしてそれを見る。
「何か不満か?」
「いえ、何でもないです」
「寝室も確保しておいた。ほら鍵」
 谷古田はキーホルダーをコウに投げてよこした。
「なんだかすごい待遇…至れり尽くせり」
 未羽はカギをしげしげと眺める。
「まぁ、礼には及ばんよ」
 谷古田は謙遜してみせる。
「俺はこれからまた出かけるから、お前達は先に寝ておけ」
 そう言って彼はまた出て行った。



 時刻はもう夜の9時を回っている。
 一行は谷古田が用意してくれた寝室のドアを開けて、電気をつける。
 その部屋は白い鉄パイプでできたベッドが4つ用意されて、さらに卸したての布団が敷かれている。
 清潔な澄んだ空気が心地よかった。
「こんな寝室で眠るなんて久し振り」
 未羽はさっそくベッドに腰掛け、布団をさすった。
「電気があるのも……」
 コウは明々とともる蛍光灯を見上げて感慨深そうに言う。
 この施設は自家発電が可能で、電気が使える。だが夜中の灯りはあまり歓迎される事ではない。
「もう消すよ」
 部屋の入り口で、アヤがスイッチに手をかけて言う。
 返事を待たずに、部屋は真っ暗になる。
「ああ!まだ消さないで」
 未羽がうろたえた調子で言う。
「えと…、あたし消してないけど……」
 アヤはつぶやいた。
「それじゃ…」
 コウがそう言おうとしたとたん、サイレンの音がその声を掻き消した。
『空襲警報発令。直ちに戦闘態勢に入れ。空襲警報発令…』
 自動音声で場内アナウンスが流れる。コウの表情は険しくなった。
 彼はバッグに入れていた銃をつかんで、窓から外に目を凝らす。
 キャタピラの音が聞こえる。
 下界では数両の戦車が列をなして滑走路の方向に進んでいた。
「ここからじゃ見えない」
 コウは部屋を飛び出す。
「あ、待って!」
 未羽の声はコウには届かなかった。

「何の騒ぎかね?」
 灰色の仕官の制服を着た初老の男が司令室に入ってきて、そばのオペレーターに尋ねる。
「また、襲来甲の攻撃です」
 オペレーターはディスプレイを見ながら言った。
 画面には巨大な芋虫のような物体が映し出されている。体中に赤い目を光らせ、5本の触手のような首を高く持ち上げ、無数の足を動かしながら這っていた。
「ヒドラか…」
 男はあごひげをいじる。
「只今、戦車隊が応戦に回っています。じきにヘリ部隊が出ます」
「よし、そちらの方は任せる」
 男は何事もなかったように体の向きを変える。
 そしてその先には谷古田の姿があった。
「ところで谷古田一佐…」
 男の名は瀬尾中将。この厚木基地の最高責任者だった。
「もう階級なんて何の意味もないでしょう。その言い方は止めてください」
「…そうだな。今は戦えるかどうかが重要だ」
 瀬尾は笑う。ここを東京方面の前線基地に仕立て上げたのも彼の指示だ。谷古田の提案に許可を与えたのも彼だった。
「では聞こう。谷古田君、スサノオ計画の事だが…」
 瀬尾はファイルを手に持ち、掲げてみせる。
「本当に、彼にそれだけの資質があると思うのかね」
「少なくとも俺が今までに会った素質者の中では一番有望です。検査の結果でもそれは確認されています。それに、彼には兵士としての素質もある。今までは適正にこだわるあまり、精神面を考慮に入れなさ過ぎました」
「そうか。だから『喰われた』訳だな」
「神里博士の主張ではそうです」
「では認可しよう。君に任せる」
「了解しました」
 瀬尾は向きを変え、司令部の中央にある巨大なディスプレイを眺める。画面では、装甲車部隊がクビカリの群れに向かって銃を放つのが映し出されていた。
 見ているうちにも、何体ものクビカリが破壊されていく。ヒドラは依然無傷だ。
「…しかし、これが上手くいったとして、どれだけの戦力になるのかね?」
「それは未知数です。数値上では、サンプルの和程度には出せるという事です。詳しくは俺も良く分かりません」
「君、神里君の伝言も大変だね」
「こういう事は専門外ですから、苦労します」
「彼に言ってやってくれんかね。いい加減こちらで開発してくれるようにと…」
「あいつは、昔から頑固ですから」
 谷古田は頭を掻いた。瀬尾は苦笑いする。
「…ご苦労。もう下がってくれ」
 その言葉に谷古田は一礼し、その場から立ち去る。
 ディスプレイには、戦車部隊が陣形を整える様子が映し出されていた。

 コウは宿舎の屋上に上がって、遠くの闇に目を凝らした。
 手前には戦車部隊が横一線に並び、砲弾を放っている。その砲弾の着弾点に何かがいる。
 無数の赤い点と青白い点が光っている。おそらくクビカリとヒドラだろう。
 火柱が何本も上がる。それに照らされて、おぼろげながら敵の姿が見えた。
 突然、青白い閃光が戦車に向けてまっすぐに放たれ、数両の戦車が吹っ飛ぶ。
 爆風がコウの所まで達し、彼はひるむ。
 戦車のいたところから明々と炎が立ち上り、彼は息を呑んでそれを見つめる。
 焼け焦げた戦車のそばに新しい戦車が割って入り、再び攻撃を始めた。
 はっきり言って、消耗戦だった。
「こんな…こんな戦いなんて……」
 コウはうめくようにつぶやく。今ので何人死んだんだろうと彼は思った。
 ヒドラは無数の砲撃を受けながらもなお、こちらに向かって進撃してくる。その周りをクビカリが囲み、ヒドラの盾となって次々に破壊されていった。
「これが、ここの奴らの戦いだ」
 コウの背後から谷古田の声がした。
 彼は屋上に上がってきていた。
「お前は眠っとけばいいのに」
 そう言って、双眼鏡を覗き込む。
「こんな時に眠れませんよ」
「あいつらの事なら気にするな。死ぬ覚悟がない奴なんて、ここにはいないから」
「でも、これじゃあまりにひどいじゃないですか」
「しかし、このやり方しかないんだ……」
 谷古田の背後から、ヘリ部隊がサーチライトを揺らしながら飛んでいく。
 そして空中で静止したかと思うと、両翼からミサイルを間断なく撃ち出す。何本もの白色に輝く航跡が伸び、それが着弾して爆発した。
「ヒドラ1匹にここまで……」
「今日の戦いはこれでもましな方だ」
 谷古田は感情を押し殺したような声で言う。
「2ヶ月前の戦いは、3匹のヒドラとの総力戦だったからな……」
 谷古田は再び双眼鏡に目を通す。
「どうやら、ヒドラはくたばったようだ。後は残存勢力を潰すだけだな」
 ヒドラは襲来甲達にとっては司令塔のような役割を果たすらしく、動けない石板の代わりに周辺の地域に進行する役目を持っている。
 その司令塔を破壊されると周囲のクビカリ達は散開し、個別の思考によって動き始める。
 そのクビカリ達を殲滅するために、装甲車部隊が走り出した。
「僕も参加します」
「それには及ばんよ。それに戦力の足しにもならん。あいつらに任せておけばいい」
 装甲車の機関砲は、クビカリ程度ならたやすく仕留める威力がある。ばらばらになったクビカリを追いかけ、次々と破壊していく。あちこちで銃声が響き、火花と閃光が見えた。
「ヒドラさえ仕留めれば、こちらの勝ちだ」
 谷古田はポケットに手を突っ込み、きびすを返して階段の方へ向かう。コウはその後を付いていった。爆発音の度に振り返りながら、未練がましく。
「あの戦いで何人死ぬんですか?」
「さぁな。見たところ5、6人という所か」
「ずいぶん簡単に言うんですね…」
「それが戦略観というものさ。そこでは人間なんて駒の一つにしか過ぎん」
 谷古田は振り向きもせず、さっさと階段を下りていく。
「悲しくないんですか…?谷古田さん」
 コウは怒ったように言い放つ。
 谷古田は降りるのを止め、コウの方を向いた。
「悲しくないわけないだろ…。俺の知り合いだっていっぱい死んでるんだ」
 谷古田はコウをじっと見つめた。大きく見開かれた、深い悲しみに沈んだ眼光が、彼の心を射抜いた。そして、無念の思いを押し留めるかのようにきつく結ばれた口元。
「………」
 もう、コウには何も言えなかった。
「だから、今、こういうことをやってる」
 そしてまた階段を降り始めた。
「安全地帯からつべこべ言う奴は、ただの卑怯者だと思うぜ…」
 彼は呟く。



 翌朝、昨晩の戦いで死んだ兵士達の葬儀が行われた。
 コウたちもその墓標に花を手向けた。花と言っても、付近の野原で詰んだアザミやオグルマや月見草の花だ。
「月見草か…こいつらにはぴったりだ」
 谷古田が悲しそうにおどけて言う。
 月見草は、夜の間に人知れず咲き、そして散っていく、そんな黄色の花だ。
 空砲が天に向かって放たれ、一同は黙祷した。
 コウは死んでいった兵士の事は何も知らない。しかし、命を懸けてこの場所を守ったその勇気に精一杯の敬意を表したつもりだった。
 彼等に守られて生き延びたからには、何かをやらなければならないと思った。

「俺たちも出発するぞ。お前ら早く飯を食って来い。しばらくこんなに豪勢な食事にはありつけないからな」
 コウと未羽には、谷古田の言った意味が分からない。
「ほら、お寺に泊まるからさ…」
 アヤが言う。
「あ、そうか」
 未羽は察したようだ。コウだけまだ分からない。
「生臭は喰えないって事。あたしは全然構わないんだけどね」

 朝食は皆でツナやコンビーフのサンドイッチを食べ、コーヒーを飲んだ。
 それから皆は、谷古田に呼ばれて集まる。
「これからは全員一緒で行動する事にした。だから、コウの車はここに置いてくぞ」
 コウの車は、この基地に来た時から車の鍵は差したままだったから、基地の人間が勝手に使っているようだ。来たとき停めた場所にはもう無かった。
「そのかわり、トラックがシングルからダブルキャブになった」
 谷古田が指差した先には、いかつい鉄板に覆われた暗緑色のトラックが停めてあった。所々錆びていたり、凹んでいたりする。
「ぼろいなぁ…」
 アヤは顔をしかめる。
「そう言うな。ここには他に適当な車がなかったんでな。それに、整備はばっちりだ」
「運転は誰がやるんですか?」
 コウは尋ねた。
「ふふふ、こいつはこう見えてもオートマチックだ。だから俺がやる」
「はぁ…、だからこんなのしかなかった訳ね……」
 一行の傍を真新しいトラックが駆け抜けていく。アヤはそれを恨めしげに眺めた。
「ところでお前ら、山沿いか町沿いか、どっちがいい?」
 谷古田は一同に尋ねる。
「海沿いは遠回りだが逃げ道が多い。だが遭遇率が高い。山沿いは近いが逃げ場がない。しかし遭遇率は低い。どっちがいい?」
「最低な選択ですね…」
「あたしは海がいい」
 アヤは手を挙げて言う。
「海水浴してこうよ」
「こらこら。ピクニックじゃないんだぞ」
「じゃあ僕も海で」
「私も」
「なんだよ…。揃いも揃ってもっとちゃんと考えろ」
 すると、コウが話し始める。
「確か、奴らは雨の日には活動しない。だからきっと水を嫌うはず」
「そうか」
「海のそばを移動していけば、少なくとも視界の半分に注意を払わなくて済みます」
 コウの言葉を聞いて、谷古田は嬉しそうににやける。
「だから、海沿いの方が良いです」
「詳しいんだね」
 アヤが感心したように言う。
「これで決まったな」

「谷古田一佐、どうかご無事で」
 入り口ゲートの若い兵士が敬礼する。
「お前こそ、命を粗末にするなよ」
 谷古田は運転席から顔を出して、兵士に向かって言った。
「しかし、命がけでここを守る覚悟はできています」
「だからこそ命を大事にしろって言ってるんだよ」
「は、どうも。肝に銘じておきます」
 兵士はゲートを開ける。
「俺のことは心配するな。そんなにやわじゃない」
 そう言い残して、トラックは発進する。
 一行の乗ったトラックは南へ進路をとった。
 室内はあちこちから軋み音がする。
「どこが整備ばっちりなんだか」
 助手席のアヤがぼやく。
「あたしに運転させてくれれば良かったのに」
 道には他に動いている車は少ない。交差点の信号も消え、トラックは空いた道をゆっくりと走っていった。
 街はどこに行っても、人の気配がほとんどない。
「みんな、どこに行っちゃったのかな…」
 アヤの後ろに座った未羽は街の様子を眺めながらつぶやく。
「確証はないんだが…」
 谷古田が前を見ながら言う。
「どこの都市も東京のような状態だとすると、この国の人口は3分の1になってしまったらしい」
「そんな…」
「死体がないから分かりにくいが、そんな感じだ」
 人がいなくなった街からは襲来甲も消える。そして近接する街に乗り込んで、また殺戮の限りを尽くすのだ。
 運良く逃げられた人も、行く当ても無くさ迷ううちに野垂れ死んだり、再び襲来甲と出会って殺されたり、さらには略奪にあって殺されたり。いずれにせよ、文明の保護がなくなってしまうと現代人は弱い。
「せめて電気ぐらいは使えたらいいんだがなぁ」
 谷古田は道路脇の電柱を見上げる。ここも例に漏れず、フジツボがびっしりと吸着していた。
「あいつらは人間の死体なんか集めて、何をしているんだろう?」
 谷古田の後ろに座ったコウは窓枠に肘を付いて外の景色を眺めながら、独り言のように言った。
「これから行く所にいる、神里な…」
 谷古田がコウの言葉に答える。
「あいつは襲来甲の研究もしているんだが、奴らの骨、何でできてると思う?」
「さぁ…」
「炭素だよ。それも金属炭素」
 コウは良く分からないのできょとんとしている。他の二人もそうだった。
「さて理科の問題だ。肉や魚をひたすら焼くとどうなる?」
「…食べられるようになる?」
 アヤは適当に答えた。
「生でも食おうと思えば食えるがね。この食いしん坊め。しかし、食べられなくなるまで焼くと…」
「黒焦げの…炭になる」
 未羽が答える。
「そうだ。それが原料の炭素だ」
 谷古田は続けた。
「人間の体は炭素の塊でもある」
「へぇー…物知りぃー。…ふわぁふ」
 アヤはあくびをした。
「炭素を元に作られる金属炭素は1千数百万気圧以上の高圧でなければ生成されない、今の人類の科学の粋を集めても作り出せない物質だ。ダイヤモンドよりもさらに強い上に金属としての特性がある。あいつらはいともたやすくそんな物を作っちまう。桁違いの科学力だよ」
「でも、炭素が欲しいなら何も人間ばかり襲わなくても…」
 コウは突っ込んで言う。
「そうだ。そこが一番分らない所だ。あいつらはなぜ人間を襲うのか。何か目的があるのか。見たところ、あいつらに生物らしい生活があるとは思えん」
「以前、虫みたいなものだって言ってたじゃないですか」
「確かにな。でも虫は移住する際に周囲の物は何もかも蹂躙するもんだ。イナゴや軍隊アリみたいにな。」

 そうこうしているうちに、海が一行の目の前に現れた。
 そこからトラックは西に曲がり、海沿いの道を進んでいく。
「海だぁ」
 アヤは叫んで、窓から顔を出した。磯の香りが車の中に入ってきて、一行の鼻をくすぐる。
 防風林の新緑がまぶしい。
「ね、海でランチっていうのもいいんじゃない?」
 アヤは谷古田に提案する。
「もうちょっと行ってからな」
 コウは右に見える街に目を凝らす。道には乗り捨てられた車と、足を胴体の下に折り畳んで休眠状態のクビカリが数体見えた。
「ここにも少しいるみたいです」
「そうか…」
 石板から遠く離れたところにいる襲来甲は、昼間は休眠状態にはいって動かない。しかし近くに人が接近すると反応し襲ってくるものもいる。
 動くか動かないかはエネルギーの残存状態によって左右されるらしい。
 さらに進んでいくと小田原に入る。
 しかしそこで道は途切れてしまう。川に架かっている橋が落ちていた。
「ここは駄目か…」
 トラックを止め、谷古田は橋の向こうの町に目を凝らす。建物の多くは崩れ落ち、町全体が黒くくすんでいた。人の気配はもちろんない。
「こいつは多分、ヒドラにやられたな」
 大型兵器による抵抗がほとんどなければ、ヒドラ一匹で一つの町を壊滅させる事も可能だ。
 ヒドラによる攻撃は熱線で建物を焼き払うから、目の前の光景のように黒焦げの廃墟になる。
「このまま進むのは危なすぎる。川沿いを北上するか」
 谷古田はハンドルを切ってアクセルを踏み込んだ。目の前の景色が左に回転する。
「海でランチができなくてすまんな」
「いいよ、もう…」
 アヤの返事も沈んでいた。こんな光景を見てしまったのだから無理もない。

 車は川沿いを進んでいく。
 やがて人家はまばらになり、雑草に覆われた田畑があちこちに見えてくる。
 川は上流に行くにつれて狭まり、周囲の山からは鳥の鳴き声も聞こえてくる。
 車の時計は午後1時を指していた。
「ここら辺で止まるか…」
 川には線路が並行して走り、所々に駅がある。
 谷古田は、適当な駅のロータリーに車を停める。
「小川のそばでランチというのも、悪くはないだろ?」
 彼はそう言って笑い、サイドブレーキを引いた。



 一行の走ってきた道と線路は山の谷間を走っていた。
 手入れされなくなった旧い木造の駅舎は、あちこちが雑草に覆われ、ずいぶんひなびて見える。
 そばを流れる川の水音が、一行の耳には心地よく響いた。
 駅のそばにある自動販売機は、電気が来なくなってから動かなくなっている。谷古田は荷台からバールを取り出し、自動販売機の扉をこじ開けた。
「ぬるいジュースくらいならあるぞ」
 こうやって自動販売機を壊して中身を拝借するのは、東京にいる頃から日常の一こまになっていた。これくらいできないと、生きてはいけなかったからだ。
 谷古田が駅の中に入ると、そこには先客がいた。
 中年の男女の二人組が、駅構内の木製のベンチに座っていた。
 二人とも茶色のシャツを着て、古びたリュックサックを傍らに置き、膝の上には携帯食を乗せている。
「こんな所で人と会うなんて、奇遇ですな」
 少しやつれた感じの中年男は挨拶をする。
「こりゃどうも」
 谷古田は会釈した。
「電車を待ってるんですか?」
 谷古田は尋ねる。
 駅の中を見回しても、駅員の姿はない。
「電車なんて来ませんよ。私たちはここで一休みしていた所です」
 男は笑って言った。女も笑う。
「私たちは小田原から逃げてきたんです」
 他の三人も駅に入り、ベンチに腰掛ける。
「ご家族の方ですかな?」
 後から入ってきた三人に会釈して、男は谷古田に尋ねた。
「いえ…、訳あって一緒にいるだけです」
 谷古田は頭を掻く。
「俺たちも小田原の様子は見ました。大変でしたね…」
「大きな化け物が現れて、私たちにはなすすべがありませんでしたから」
「自衛隊も救援には手が回らなかったようです」
 中年女も男に続けて言う。
「連絡系統が壊れてしまいましたから…」
 谷古田は申し訳無さそうにつぶやく。
「長野に臨時政府ができたんですけれど、その事すら誰も知らないという有様です」
「まぁ、あんな物を相手にしたんでは仕方ないでしょう」
 と、男。
「私たちはなるように生きるしかありません…。息子も死んでしまいましたから」
 女はそう言って口ごもった。それ以上言ってしまうと、悲しみが口から漏れてしまうかのように。
「ちょうど、彼等と同じ年頃の子でした……」
 女はそう言ってコウの方を見、ゆっくりと微笑んだ。
「見たところ、あなた方も旅の途中に見えますが」
 男は谷古田達を見回して問いかけてきた。
「どちらへ行かれるんですか?」
「俺たちは、これから青木ヶ原の方へ」
「これまた奇遇ですな。私たちもそこに行くつもりですよ」
 それを聞いて、コウ達の表情は硬くなる。
 コウは尋ねる。
「それは、もしかして、『浄光』ですか…?」
「ええ。私たち、そこでお世話になるつもりでいます」
 男は胸から黒い金属片のようなお守りを取り出した。その顔はやけに嬉しそうだった。
「我々、力のないものにはありがたいものです。これは」
 男はやつれた顔をしわくちゃにして笑みを作った。
「これがあるおかげで、私どもも生きようと思った」
 女も同じ物を取り出し、それを両手で挟んで祈るしぐさをする。
 コウには、それが襲来甲の骨の一部である事がすぐに分かった。
「シノビ様は私たち全ての苦しみを引き受けてくださる。私たちにとってはそれだけでありがたいのです」
「シノビ様…ですか」
 首をかしげるコウに、男は説明する。
「シノビ様は、浄光の教祖様です。天からの襲来によってその神性に開眼し、我らを導く事を使命としておられます」
 女も講釈する。
「シノビ様にとっては天蠍は敵ではないのです。だから決して襲われません」
「天蠍?」
「シノビ様が名付けなされたのです。巷の人々は恐怖を持って襲来甲と呼びますが…」
 二人は自分達の言葉に酔っているようだった。
「シノビ様の力によって、私たちも襲われなくなれるのです」
「ですが我々は、他の人に信仰を無理強いしたりはしません。それはシノビ様の御意思に反しますから」
 その言葉を聞いて、コウは何だかほっとした。
「実際の所、私達も、そこに行ってみない事にはよくわからないんです」

 昼食も食べ終わり、コウ達3人は近くの川原で遊んだ。
 水は澄んで冷たく、葦の生えた川辺にはたくさんの羽虫が舞っている。
 川には魚がたくさんいて、コウは子供のように無邪気にそれを追いかけた。
 捕まえ方などまるで知らず、何度も失敗したり転んだりする。
 それを見て、アヤや未羽は笑う。
 中年の夫婦と谷古田は、ホームのベンチに並んで座り、その様子を遠巻きに眺めていた。
「彼らは孤児なんです」
 コウ達の笑い声が聞こえてくる中、谷古田は二人にそっと言う。
「それは大変な事で…」
「まぁ、今では彼らのような境遇は珍しくはありません」
「あなたも大変な覚悟をしておられるようですな…。このような世界になってもなお、多くを背負おうとしている」
 コウ達の遊ぶ姿に、男は羨望のまなざしをむけてつぶやいた。
「私達には、もう多くを背負う事ができません。年を取るというのは、こういう事なのでしょう……」
 谷古田は何も言えず、ただ一緒にコウ達のはしゃぐ姿を眺めるしかなかった。
 しばらくすると、男は一枚の名刺を差し出してきた。

 取締役
 北見誠一郎

 と書かれている。
「お見知りの印に、これをお渡しします。今ではこんな肩書きなど何の意味もありませんが…。これも何かの縁です」
 谷古田は一礼をしてそれを受け取った。
「一緒に行きませんか?」
 そう言って谷古田は外に停めているトラックを指し示した。
「ありがとう。…でもそれは遠慮させていただきます」
 男は深々とお辞儀をする。
「道中、歩いていかなければ本願は達せられませんので」
「まるでお遍路さんみたいですね」
 谷古田は言う。
「まさしくそうです。これも浄光に至る為の修験の道です…」
 男は、立てかけてある杖をなでて笑った。

 時刻は2時半を回り、コウ達一行は移動を再開する。
 あの夫婦とは駅で別れた。もう少し休んでいくという事だった。
「もうすぐ御殿場だ。富士山が見えてくるぞ」
 谷古田は運転しながら言う。
 今度は、コウが助手席に座り、他の二人が後部座席に座っている。小田原の光景を目にしてから、一行は少し神経を尖らせていた。
 谷あいの道を進んでいくと、急に目の前が開ける。
 御殿場は富士と箱根の山に挟まれた盆地で、そこにはまだ無傷の街が広がっている。人々が普通に往来する光景は、彼らには特別な感慨をもたらした。
「ここは無事なんだな…」
 谷古田は嬉しそうに言った。
 この町の東には自衛隊の演習場がある。どうやら、そこから流出した武器が人々に行き渡っているようである。背中に銃を担いだ住人の姿がそこかしこに見えた。
 しかし、人の数が妙に多い。おそらく近隣の都市から逃げてきた人々が集まっているのだろう。
「この町の地形は要塞として使えると前々から思ってきたが、その通りになったようだ」
 この町は周囲を山で囲まれ、進入経路が東西南北4本しかない。それは襲来甲からの守りにも効果があるようだった。

 町に入ってしばらくすると、どこからかけたたましい笛の音が聞こえてくる。
「そこの車、止まれ!」
 門番らしき人々に呼び止められ、周囲を囲まれた。中には警察の制服を着ている者もいる。
「この町に何をしに来た」
 白いTシャツ姿に銃を担いだ20代くらいの背の高い男が、運転席の谷古田に詰め寄ってきた。
 その表情は硬く、目付きは落ち着きがない。相手に見くびられまいと虚勢を張っている様子が手に取るように分かった。
 谷古田はまったく気にする事もなく、へらへらと受け答えをする。
「ただの通りがかりだよ」
「この町には留まるなよ」
「そりゃまた何でだ?」
 谷古田は窓枠に肘を付いて、ぞんざいな姿勢で男に尋ねた。
「もうこの町は限界なんだ。これ以上移民を増やせない。これ以上増えると養う事も、守る事もできない」
 男は真剣な顔で答える。表情に余裕のなさがにじみ出ていた。
「そりゃあ大変だな…なぁに、俺たちは青木ヶ原に行く途中さ」
「それなら、別に構わんが…。あんまり長居して欲しくないな」
「心配には及ばんよ。通してくれ」
 谷古田がそう言うと、男たちは車から遠ざかり、トランシーバーで連絡を取り始める。
「何してるんだろう……」
 助手席のコウが、男の映っているサイドミラーを覗き込みながら言う。
「おそらく、車のナンバーでも控えてるんだろう。出口で照合するためのな」
「何でそんな事を…」
 未羽は窓からちらちらと外の様子を覗きながら、首をかしげた。
「この町は言ってみれば天然の要塞だ。守りやすいが物資の輸送も限られる。特にこんな状況じゃな」
 谷古田はアクセルを踏み込んで加速する。ディーゼルエンジンがガラガラとうなりを上げた。
「限られた物資を町の者で独り占めしたいのさ。この町の連中は外界のあらゆるものを怖がっている」
 町並みに目を向けると、商店街はあるもののどこもシャッターを下ろしている。道行く人々もこちらをじろじろと見ていた。
「薄気味の悪い所だ」
 谷古田は口を曲げて吐き捨てるように言った。
「人間、臆病になると人を信じなくなるって言うのは本当らしい」

 しばらく道なりに進み、北の出口に差し掛かって来たところで、前方に人の集団が見えてきた。
 目を凝らして見ると、人々は皆銃を手に持っているのが確認できる。
「コウ、銃の用意をしておけ」
 コウには谷古田の言葉の意味がすぐに理解できた。愛用の拳銃をグローブボックスから取り出して手に握る。
「後ろの二人は何かに掴まってろ」
 その声に、アヤと未羽は天井の隅にあるバーを握り締めた。
 前方の人々は道幅一杯に広がり、緊張した面持ちでこちらを見ていた。
 車が彼等に近付くと、持っていた銃を構える。
「そこの車!荷物を全部置いていけ!!」
 集団の先頭に立っていた男がそう叫ぶ。
「断る!」
 谷古田は男に向かって叫んだ。車のスピードを上げる。
「コウ、威嚇射撃だ」
 谷古田の命令に、コウは助手席から身を乗り出して銃を放った。男が一人うずくまる。
 構わずコウは2発、3発と発砲する。男たちは散らばって、道の中央が空いた。
「止まれ!さもないと撃つ!!」
「知った事か!」
 谷古田はハンドルを素早く切り、車はタイヤを鳴らして左右に大きく蛇行した。ボディが振り子のように揺れる。
 銃を構えた男たちの何人かは跳ね飛ばされた。
 車は追撃を振り切ろうと全速力で走り始めた。
 後ろから銃声が何発も聞こえてくる。しかしほとんど当たらない。
「けっ、素人どもめ…」
 谷古田は車を左右に振って、狙いを回避した。
 荷台の敷居に当たって金属音が響く。
 右のサイドミラーに弾が当たり、粉々に砕け散った。
 未羽とアヤはシートの足場で体を丸めていた。
「あ…当たった…」
 コウは身を乗り出して後ろを見た。男達が何人か倒れていた。
 額に油汗が流れる。
 彼は初めて人を撃った。その事に言い様のない気持ち悪さを感じていた。
「山賊どもの事なんぞ気にするな」
 谷古田はそう言い放つ。
「自業自得だ」
 コウは谷古田の言葉に自分を納得させようとした。
「今更ながら、嫌な世界になっちまったぜ…」

 追っ手を振り切るためにしばらく走ってから一行は止まり、トラックの状態を点検する。
 荷台の所々に弾痕ができていた。
「相手が素人で助かった」
 足回りはどうやら無事のようだ。彼らは狙わなかったらしい。
「なんとか持ってくれるといいんだが」
 谷古田はぼやく。
 一行はすぐに出発する。

 富士山がすぐそばに見えた。
 誰も口をきかなくなり、車はふもとの森の中を走っていく。
 太陽は西の地平線に近付き、空は赤みを帯び始めていた。
 一行のトラックは富士山の縁を走っていく。
 道の脇には彼等と同じく北へ歩いていく人影がちらほらと見えた。
 その中には白装束に身を包んだ者もいる。
「浄光の連中も増えてきたな…」
 谷古田は誰に話しかけるでもなく、独りつぶやく。
 後部座席の未羽とアヤは眠っていた。
 コウはぼんやりと外の景色を見ていた。彼に撃たれた人はどうなったのだろうかと、その事が頭から離れなかった。
 白装束に身を包んでいなくても、道路脇を歩いている人は皆、恐らく浄光の信者になる者達だろう。それ以外の目的でこの道を進んでいく者など考えられない。
 神里は彼らのような人々を歓迎はしないだろうし、彼の存在がそれほど有名だとは思えない。
「この調子だと、どんどん膨れ上がっていくな…」
 谷古田は独り言を続ける。

「谷古田さん…」
 コウが話しかけてきた。
「何だ?」
 コウは後部座席を振り返る。未羽は穏やかな寝息を立てていた。それを見て彼は安心したように話し始める。
「未羽は、浄光に入ろうとしたんです」
「…そうか」
 無理もないという調子で、谷古田は返事をする。
「僕は、彼女を引き止めました。そっちへ行っちゃ駄目だって」
「そうか」
「でも、今はそれが正しかったのか分からなくなってきました…。あれは悪い集団じゃないみたいだし」
「そうだな。こんなに人を惹きつけるんだから、それなりのものではあるだろう」
 白装束の集団を、一行の車が追い抜いていく。
「駅であった人達も、あんなに清々としていた…」
 コウはそれを眺めながらつぶやく。
 しばしの沈黙。
「でも、正しいかどうかなんて考えない方がいいぞ。お前はその時できるだけの事をやったんだろう?」
「僕が未羽を引きとめたのは、個人的な事です。未羽がただそばにいて欲しかった」
「だったら、責任を持て」
 コウは谷古田の方を向く。
「お前が幸せにするんだよ」
 谷古田は笑った。
 コウは再び、外の景色を眺めた。路肩の人々はだんだん密度を増しているようだった。
「彼らは、幸せなんでしょうか?」
「そんな事はわからん。幸せなんて思い込みの一種なのかもな。だから、幸せだと思い込めるなら幸せなんだろう」
「………」
「お前、襲来前は幸せだったか?」
 谷古田はコウに聞いた。
 コウは答えに窮した。
「物事を正確に見ようと思えば、思い込みは排除しなきゃならん。だから、そういう奴は幸せを感じる機会もなくなる」
 谷古田は再びコウの方を向いた。
「俺はな、お前は、きっと昔からそういう奴だと思ってたよ。騙されたいが為にさまよう連中とは違うってな」
 コウは何も言わなかった。
「俺は、お前のそういう所が好きだ」
「別に、好きにならなくてもいいです」
 コウは少しふてくされる。谷古田は笑った。
「こんな世界じゃ、大抵の人間は幻想に逃げちまう」
 真っ赤な夕日が西の空に沈みつつあった。
「戦わなければ、生き残れないのに」
 谷古田はつぶやく。
「それより、夢見ながら死んでいく事を望んでいるんだろうな」

「谷古田さんって、襲来前はどうだったんですか?」
「…俺か?」
 谷古田はバックミラーを覗き込んで、二人の寝顔を見る。もう暗くて良くわからないが。
「俺は…、嫌な奴だった」
 谷古田は車のライトを点けた。
「いわゆるキャリア組でな。防衛庁から警視庁に出向していたんだ。家庭には妻子もいて人生は順風満帆だったよ」
 道は街灯も消え、両側から迫る森が余計に暗さを増幅していた。
「そこにあの襲来だ。何もかも失っちまった」
「結婚していたんですか…」
「今はもういないよ。みんな死んじまった。目の前でヒドラにな…俺の人生もろとも燃やされちまったよ」
 目の前に薄汚れた青い看板が見えてくる。左方面が富士吉田市と書かれている。鳴沢は富士吉田の先だ。
 車はそれに従い、先のT字路を左折した。
「官僚にとって見れば、国のシステムが壊れるのは存在そのものが壊れるようなもんだ。国家に頼りっきりのろくでなしどもはみんな脱落していったよ」
「でも、谷古田さんは脱落しなかった」
「俺は依存心が無かったからな。もともと学閥で群れるなんて事には興味がなかったし。それに理解者もいたし、綾子の死を無駄にしたくもなかった」
「奥さんですか、その人」
「まずい…今のは無しにしてくれ」
「別に、誰にも言いませんよ」
「俺はな、奴らがどうしても許せんのだ。死ぬならせめて一矢報いてみたいだけだ。どうだ、俺を見損なっただろう?こんな個人的なことにお前ら巻き込んだりして」
「別に…。僕だって同じですから」
「…って、いつの間にか俺が人生相談してるじゃねえか」

 しばらくして、未羽が目を覚ます。
「あ、もう夜…?」
「そろそろ、気をつけなくちゃまずいな。コウ、用意だけでもしとけ」
「はい」
「ごめん…、私、寝ちゃってたね」
「気にするな。アヤも起こしてくれ」
「うん」

 富士吉田は完全な廃墟だった。谷古田とアヤはよくここを通っていたから知っていたが、コウと未羽には初めてだ。
「こんな所まで…」
「ここは昔、ヒドラにやられたらしい」
 あちこちにフジツボが転がっている、東京でよく見たあの殺伐とした景色が繰り返されている。
「襲来後間もない時期だったそうだ」

 一行の車は廃墟になった町を進む。
「襲われたりしないかな…」
 未羽は暗闇に目を凝らしながらつぶやく。
「大丈夫。ここには動く襲来甲はいない」
 谷古田は言った。
「フジツボが干上がって転がっているくらいだから、奴らがエネルギーを補給する事はできないし」
 襲来甲には電気を食うものがいる。
 石板のそばの奴は石板からエネルギーを得ているが、ヒドラの周りにいる奴は電気を発生するものからエネルギーを得ることがある。
 もっとも、人間の使っている電気は大した熱量ではないらしく、襲来甲が動くためには相当な充電をしなければならないようだが。
 エネルギーが切れて動けなくなった襲来甲は、その場で仮死状態になっている。
 一行はここに来るまでに、休眠状態になっている襲来甲を幾つか見てきた。
 そして、この町は特に、そういう奴がいたるところに転がっている。
 風雨に晒され、薄汚れたクビカリやムカデ達は、ずいぶんと朽ちているように見えた。
「連中も、戦略を誤る事があるって事かな」
 それら脇を走り去る車の中で、谷古田は言う。
 コウはさらに目を凝らす。居並ぶ襲来甲の中にヒドラだけがいない。
 ヒドラはそれ自体で発電し、動く事ができる。言ってみれば小型の石板のようなものだ。

「神里がここら辺にいたがるのも、こういう奴らが目当てなんだ。なんたって最高の研究材料だからな」
 夜になって、車のスピードは落ちた。それというのも、路上にまで転がっている襲来甲をかわさなければいけないからだ。
「その、神里っていう人の事を教えてくれませんか?」
 コウが谷古田に訊いた。
「神里か……」
 谷古田は少し黙る。
「無理だよ。あたしにも教えてくれないんだから」
 後ろからアヤの声がした。
「いつもお寺で待ちぼうけさせられるし」
 アヤは不満をぶちまける。
 谷古田は苦笑いしている。
「隠し事ばっかりしてると友達いなくなるよ」
「うるせーな、分かったよ。ここまで来れば一蓮托生だ。教えるよ」
「うむ。正直に吐いて楽になりなさい」
 アヤは後部座席で腕を組んだ。未羽もコウも谷古田の言葉に注目した。
 彼はゆっくりと話し始める。

「神里はな、高校の時からの友人なんだ。白子だから体が弱くて、性格も変わり者だったからいじめられてた。放って置けなくて、俺が中に入って、少しは仲良くなった。
 とにかく頭が切れる奴だった。最高学府に入って医学と生化学と機械工学の3つの博士号を取り、鳴り物入りで国の研究機関に入ったんだ。
 しばらく俺とは会わなかったけど、石板襲来の後に襲来甲の研究をしている事が分かってな。ハンターを立ち上げるために助力を頼もうとしたら、襲来甲の研究とそれまでやってきた研究を結び付けたいから手伝ってくれと言われた。ついでだしあいつも巻き込んだ方が色々と助かるから受けた訳だが」
「なるほど。それで、パシリになった訳か…」
 アヤが話に突っ込む。
「とことん失礼な奴だなお前は。…まぁ似たようなもんだが。パシリ言うな。それに、あいつがもともとやっていた研究には防衛庁も秘密裏に関わっていたようなんだ。だから話は早かった。それは『スサノオ計画』という名前を付けられた」
「スサノオ計画?」
 コウはさらに追求しようとする。
「詳しい事は俺には言えんが、対ヒドラ戦のために策定された計画だ。スサノオは八俣大蛇を倒すだろ?」
「それを使えばヒドラを倒せるって事ですか?」
「今でもやろうと思えばできないこともないがな。お前も厚木での戦いを見ただろう。ヒドラを倒すには味方の損害が大きすぎるんだ。奴の熱線をかわしながら攻撃できる機動力は戦車にも、ヘリコプターにもない」
「あの兵隊さん達、初めから死ぬつもりで…」
 未羽が悲しそうにつぶやいた。
「そうだ。そんな特攻まがいのことをしなければヒドラは倒せんのだ」
 谷古田の表情は険しかった。
「そのスサノオ計画っていうのが成功すれば…」
「そうだ。そんなことをしなくても済むようになる。だから俺はパシリをしてる」
「ごめん…」
 真顔で谷古田がそう言ったので、アヤはたまらず謝った。
「そして、それが成功するか否かは、コウ、お前にかかっているんだ」
 谷古田はコウの肩に手をやった。
「僕に…?」
「そうだ」
「俺はアヤと出会う前から、こうやってパシリをやっているんだが…」
「もうパシリはいいです…」
「パシリはパシリだからな。紛れもなくパシリだ。反論の余地なくパシリだ」
 谷古田はふてくされたように繰り返す。
「それはともかく、お前以外にも見込みのある奴を何人か神里のもとへ連れて行ったし、あいつも独自にスカウトしていたりしてたみたいだが」
「その人達、どうなったんですか?」
「みんな失敗した。ある者は死に、ある者は精神に異常をきたした」
「そんな…」
「だが神里は残酷な奴だ。あいつはそういう人体実験まがいの事を繰り返し、瞬く間にデータを集めていったよ」
 谷古田はさばさばとした様子で話を続ける。
「いわば、死んでいった奴らは生贄みたいなもんだな」
「コウは大丈夫なんですか?」
 そう言ったのは未羽だった。
「コウがそんな目に会うんだったら、私許せない」
 彼女は語気を強めて谷古田に訴える。
「心配するな。まだ決まったわけじゃない。俺が連れて行っても最終的に判断するのは神里だ」
 未羽は唇を噛んだ。コウは黙っていた。
「それに、コウの意思を無視するほど、あいつはいかれてないよ。今までの奴は全員、自分の意思で体を差し出したんだ」
 一行は沈黙した。

 車は富士吉田を抜け、いよいよ青木ヶ原のある鳴沢に入る。
「人間じゃないものと戦うためには、こちらも人間じゃいられないんだ…」
 谷古田は独り、奥歯を噛んだ。