3章 めざめ



 鳴沢をしばらく進むと、道に明かりが灯り、その中心に巨大な鳥居が見えてくる。そしてどこからか太鼓の音が聞こえてきた。その場違いな様子に一同は釘付けになる。
「あれは、浄光の社だ。最近作られたみたいだな」
 谷古田は明かりの方向に眼をこらして言った。
「前よりもずっと人が増えてる」
 アヤは前の座席に身を乗り出しながら驚く。
「人が集まれば市も立つ。市が立てばさらに人が集まる。その繰り返しだ」
 谷古田は運転に専念した。
 樹海の一部は切り開かれ、真新しい道ができている。
 道のいたるところに松明の明かりがともり、周囲をオレンジ色に照らしていた。そこを白装束の信者が行きかっている。
 コウはもっと寂しげな光景を想像していただけに、目の前の活気にみちた様子に驚いていた。
「社ができたんで、連中はお祭り騒ぎをしてるんだろう。ともあれ、俺たちが泊まるのはここじゃない」
 車は社のそばを通り抜ける。コウは通りの奥に目を凝らした。
 真新しい木でできた巨大な社殿がライトアップされ、鳥居の向こう側に見える。そこに至る道には、さまざまな露天が店を開き、まるで縁日のお祭りの様だった。
「金魚すくいとかもやってるのかな…」
 未羽は眺めてはしゃぐ。
「かもな。まぁ、祭りはまだ続くみたいだから、改めて覗きに行けばいい。俺は疲れた」
 谷古田はため息を吐いた。
 時刻は夜の7時を回っていた。

 谷古田は、人気のないお寺に車を止める。
 ちょうど浄光の社とは向かい合いの丘にある寺だ。
 寺のそばには瓦葺の民家があり、そこには明かりが点っている。
「さて、お乗りの皆さん着きましたよ」
 車を止め、谷古田はエンジンを切った。
 アヤは最初に車を降り、両手を上に投げ出して背伸びをした。
「ふぁ〜、疲れた」
 そう言ってさらにあくびをする。
 他の三人も降りる。
「銃に弾を入れて持って行け。それ以外は置いてても構わん」
 谷古田はコウに指示をする。コウは黙ってそれに従った。
 コウは寺の看板を見た。

「道明寺」

 そう読めた。
 ここの空気は都会と違って、夜になるとひんやりとしている。
 風が吹くと木陰がざわめき、腐葉土の臭いが運ばれてきた。そしていたるところから虫の鳴く音が聞こえてくる。
 コウは丘の縁まで歩き、周囲を眺め回した。
 石の階段が下界へと続き、その先に煌々と照らされた浄光の社が見えた。
「ずいぶん遅いお着きで」
 人懐っこそうなしわがれ声が、背後から聞こえてきた。
 彼が振り返ると、明かりの点いた民家から老婆が出てくるところだった。
「またお世話になります」
 谷古田は腰を低くして挨拶した。
 コウも一行に合流する。
「ええからええから。早くうちにお上がり」
 老婆はそう言って、うめぼしみたいにしわくちゃな顔をさらにしわくちゃにした笑顔を作る。

 一行は老婆に連れられて、民家の中に案内される。
 家の中に入ると、白髪の顎ひげを蓄えた僧侶が玄関に立っていた。
「よくおいでなすった」
「いつもいつもお世話になります。今回お世話になる甲樹と未羽です」
 谷古田は老僧の前で自己紹介をする。
「これからお世話になります」
 二人は挨拶をした。
「こちらこそ。私の名前は明海(みょうかい)。この寺の住職です」
 そう言って、明海と名乗った老僧はお辞儀をする。
「それにしても亜矢ちゃん、相変わらず元気だね」 
「えへへ、それが取り柄ですから〜」
 明海とアヤは顔見知りだ。

「ここは何にもないですけど、食べるものと泊める所ぐらいはあります」
 明海は一行を家の中に案内する。
 老婆は厨房で炊事の続きをするために、その場を離れる。彼女はこの寺のお手伝いさんで、トキ子という名前らしい。
「この寺には古い仏教の戒律がありますから、妻帯は禁じられておるのです」
 彼の話によると、明海とトキ子はかつて恋人同士であった。しかし僧侶として妻帯が禁じられたため、お手伝いとして共に暮らす事になったそうだ。

 民家の中は思ったよりも広く、20畳はある座敷に、全員分の布団がちゃんと用意されている。
「昔からこうやって、旅人を泊めたりするのがこの寺の慣わしみたいなものですから」
 聞く所によると、富士は昔から霊場で、富士を訪れる者に宿を提供するのがこの寺の伝統であったらしい。
 もっとも、襲来前までは自殺志願者を住まわせて、自殺を思い留まらせていたりする事も多かったと聞く。
「昔は死に行く者ばかりがここにやってきました。しかし今では生きようとする者ばかりがここに来ます。まるで世の中がひっくり返ってしまったようです」
 そう言いながら、彼は仏壇のある大広間に一行を案内した。そこには大きな赤茶色のちゃぶ台と人数分の座布団が用意されてあった。
「ここで毎日の食事を取っていただきます。今夜はこれから食事にしましょう」
「さあさ、皆さんお座りになって」
 トキ子がお盆を持ってくる。上には小皿や茶碗が乗せてあった。
「私も手伝います。お婆さん教えてください」
 未羽はそう言ってトキ子の所へ歩み寄った。
「いいのよ今日は何もしなくて。疲れているのに悪いし。明日から教えてあげるから。ね」
 そう言ってトキ子はやんわりと申し出を断る。
「…お言葉に甘えさせてもらえよ」
 コウは笑う。
 未羽は少し済まなそうにうなずいた。

 夕食はアヤが言っていた通り、野菜ばかりの精進料理だった。
 聞けば、裏庭の畑で作った取れたての作物だと言う。
 食卓を囲んでの食事は、一行にとってはありがたいものだ。
 特にコウにとっては、皆で語らいながらの食事は貴重な経験でもあった。今となってはテレビも見られないが、それで良かったとも思う。
 明海は一行にいろいろな事を聞いてきた。一行は乞われるままに旅の事や、東京での事、世界の情勢についてなど知っている限りの事を語って聞かせた。彼はずっと笑顔のまま、やんわりと相槌を打ちながら耳を傾けていた。

 その彼が唯一真顔になって聞き入る話題があった。浄光の事である。
 話が旅の途中で会った浄光の信者の話になると。彼の顔は厳しくなる。
 ここからすぐそこに浄光の総本山があるのだ。一行よりも彼の方が、浄光には詳しいと思われ、今度は彼らが明海に尋ねる。彼は話し始めた。
「彼らがここにやってきたのは、富士吉田が廃墟となってから半月ほどたった頃でした。そして彼らは一人の少女を教祖として、この地に社を築き始めたのです」
「やっぱり、富士吉田の件が関係しているのは間違いないな…」
 谷古田はそう言って、煮豆を箸でつまんで口に放り込んだ。
「教祖は女の子なんですか?」
 コウは聞いた。
「そう。自らを常晴方志乃火比命(とこはるかたしのびひめ)と名乗っているらしいです。何でも、人類で初めて襲来甲の御心に触れた方だとか。それによって自らの使命に目覚め、人々を清めの炎で救う事を始めたのだと。齢は14,5歳だと聞きます」
「そんな子供が、あんな組織を…」
 コウは絶句する。明海の話は続く。
「もっとも、教団を仕切っているのは馴苦(ならく)という男です。シノビ姫は彼に担がれているだけですよ」
「なるほど。その男はその道のプロなのかもしれないな。教団の組織、ラジオでの宣伝、連中の衣装、かなりの知識がなければ難しい事だ」
 谷古田はジャガイモの煮つけをほおばる。
「確かに、彼は昔、別の宗教団体にいたという話もあります」
 明海はお茶をすする。
「まぁ、今の所は危害を加える様子もないみたいですから、静観しておくのがよろしいでしょう」
「和尚さんは、彼らのことはどうにも思わないの?言ってみれば商売敵みたいなものでしょ?」
 失礼を省みずにアヤが言うと、明海は歯を見せて大いに笑う。
「私は商売として宗教をやっている者ではないですから。ただ、ナラクという者がちと気にはなりますが」
「例えば、どんな…?」
 未羽は追求する。
「彼らは最近、ずいぶんと立派な社を建立されました。それは力の誇示したいという欲の現れです。彼等にそういう欲があると言う事は、これから何か事を起こすやもしれません」
 明海はまた茶を飲んだ。
「そして、それを指揮している奴がナラクという訳だな」
 谷古田は茶をすすって腕を組む。
「なんだか教祖がかわいそうね」
 急須でお茶を入れながら、アヤが皮肉っぽく言う。

 一行は食事が終わると風呂に入り、大部屋に布団を敷いて蚊帳を張って就寝の用意を整えた。
 ここでは襲来甲の心配がほとんどいらないので、いつになくリラックスできる。
 コウが縁側に腰掛けていると、浄光の社からの太鼓の音がまだ聞こえてくる。
「お祭り、行ってみようか…」
 未羽が後ろから声をかけてきた。
「大丈夫か?」
「もう心配しなくていいよ。ただ、お祭りが懐かしいなって思って」
 未羽の言葉に、コウはほっとする。
 そして立ち上がり、廊下を走って玄関の方へ去っていったと思うと、すぐに戻ってくる。
「祭り、見に行こうか」
 コウは二人分の靴を持ってきた。未羽は照れくさそうに微笑んで自分の靴を受け取った。

 二人は寺の階段をゆっくりと降りていく。
 目の前には、浄光の社を中心として、明かりが放射状に散らばっている夜景が広がっていた。
 さえぎるものがなく、太鼓の音は先程よりも大きく聞こえる。
 後ろから誰かが駆けてくる音がする。
「二人だけなんてずるい。あたしも誘ってくれたらいいのに!」
 アヤだ。上着に谷古田のジャケットを羽織っていた。
「それとも、隠れてデートでもするつもりだったのかな?んん?」
 アヤは二人の間に体をねじ込んできた。
 未羽は顔を真っ赤にしてうつむき、コウは頭を掻いて苦笑い。
「谷古田さんは?」
 コウは後ろ振り向いて言う。
「タコ屋さんは寝たよ。あいつったらつれないでやんの」
 アヤは口をへの字に曲げてぼやいた。
「だからこれ、黙って持って来ちゃった」
 そう言って彼女は、羽織っているジャケットを見せる。谷古田が着ていたものだ。
「山間の夜は結構寒いからね〜」
 彼女はいたずらっぽく笑う。

 階段を下りて数百メートルも歩くと、浄光の敷地に入り、沿道には明かりが点っている。
 この地域には浄光の信者だけではなく、それらを当て込んだ人々や避難民も集まってきているようだった。
 しかしさすがに露天の数は多くはない。
「だいたい徒歩じゃあんまり持ち運べないし。しょうがないよね」
 と、アヤ。
 とは言っても、綿菓子売りやポン菓子売り、金魚すくいなどはやっている。一行は鳥居をくぐり、参道へ入る。
「金魚すくいあったよ!」
 未羽ははしゃいで二人の袖を引っ張った。
 ビニールでできた水槽には、金魚の他にメダカやハヤなんかが入っている。金魚だけでは足りなくて間に合わせで入れたのだろう。
「お金、ないよ」
 コウはポケットを叩いて首を振る。
 未羽はがっかりして、水槽を物欲しそうに見つめていると、威勢のいい声が聞こえてきた。
「お金はいらないよ!」
 水槽の番をしているおじさんは笑った。
「今日は特別な祭りだからね。ただし、一人一回!」
 そう言って、虫眼鏡型のポイを一人一個ずつ渡してくれる。

 最初に挑戦するのは未羽。
 慣れない手さばきで、ポイは一匹もすくえないうちに破けてしまった。
「嬢ちゃん、端っこに乗せるようにやるんだよ」
 的屋のおじさんは破れたポイですくうポーズをしてみせた。
「けっこう難しいなぁ」
「僕の分もやりなよ」
 コウは笑って、自分の分を渡す。
 彼女は再び挑戦。
 その間、コウは手持ち無沙汰に周囲の様子を見回した。
 通りのあちこちに提灯がぶら下がり、その中でろうそくの火が揺れていた。
 太鼓の音は途切れることなく一定のリズムで鳴っていて、たくさんの人が通りを行きかっている。
 皆着の身着のままで、その多くが避難民のようだった。
「コウ、一匹すくえたよ」
 すくい終えた未羽が水の入った袋をぶら下げて、コウの目の前に掲げて見せた。
 その中には、お腹の大きい赤と白のまだらの金魚が、ヒレをひらひらさせて泳いでいる。
「お。大物じゃないか」
 コウの言葉に、未羽は笑う。
「これだけを狙ってたからね」
「一匹だけど、そいつをすくうとはなかなか大したもんだ」
 おじさんはそう言って笑った。
 しばらくしてアヤが同じく袋をぶら下げてやってくる。こっちは3匹、赤い流線型の金魚だ。
「アヤ、上手だね」
 未羽はアヤの袋を覗き込んで言う。
「へへ、こういうのはちょっと得意なんだ。あのポイはちょっと柔だったけど、あたしにかかればこんなもん」
 アヤは得意満面に胸を張る。
「ありあわせだから、魚が少し大きかったかなぁ。」
 的屋のおじさんはそう言って頭をかいた。
「そうかもねぇ。でもしょうがないよ」
「嬢ちゃんは上手だねぇ。もう一匹サービスしとくかな」
 おじさんはもう一匹、白い金魚を入れてくれた。
「あら、ありがとー」
 アヤはしなを作って笑う。二人はもうすっかり打ち解けているようだった。
 コウは彼女のこういう順応性をうらやましく思う。おそらく未羽も彼女のそういうところに元気付けられたのだろう。

 太鼓の音が急にせわしなくなり、社の方から白装束の人々があふれるように出てくる。
「シノビ様のおなーりぃーー」
 社とは反対側の鳥居の方から、神輿を担いだ白装束の集団がゆっくりと歩いてくる。
 参道は急に静かになった。そして左右に人が分かれて、道が生まれる。
「シノビ様が夜の行を終えて、本殿に戻るみてえだな」
 的屋のおじさんがコウ達のそばで言った。
「あんたら、シノビ様を見たことあるかい?」
 一行は首を振る。
「あたしたち、今日ここに来たばっかだから」
 アヤはおじさんに言った。
「だったら見ていくといい」

 シノビ様は神輿の上に座っている。明海が言っていた通り、14,5ほどの美しい少女だった。白装束の上に垂れ下がっている、腰まである黒い髪の毛は神輿が揺れる度に絹糸のようにしなり、透き通るように白い肌の顔は無表情で、くっきりと紅が塗られた口元は微動だにしなかった。
 そしてその黒い大きな目。どこにも焦点が合っていない、ぼんやりとした視線のままで、道行く人の呼びかけにも何の反応もなかった。
「あの方はな、天蠍の御心に触れたせいで、何も見ずに全てを見る境地に達したんだとさ。だから、こちらを見なくてもちゃんと見てるんだよ」
「いつもああなの?」
 アヤは訊く。
「ああ」
 的屋の親父は頷いた。
「まるで、お人形みたい……」
 未羽はつぶやいた。

 神輿はコウ達のそばにやってきた。
 その時、シノビの首が動き、コウの方を見た。
「止まれ!」
 先頭にいた男がその様子を見てあわてて叫ぶ。
 コウは息を呑んで、シノビの顔をじっと見た。彼女の表情はまったく変わらず、焦点の合わない目がじっとコウを捉えている。
「あ…な…たも……きた…の……」
 シノビがゆっくりと口を開いた。抑揚のない声。
「シノビ様が、お喋りになったぞ…」
 白装束の人々から驚きおののく声が上がる。
 シノビはゆっくりと手を伸ばす。その先にはコウがいた。
「シノビ様、どうなされたのですか!?」
 先頭にいた男はあわてて駆け寄ってくる。
「く…る…あたら……し…い…なか……」
 シノビは小さな声で独り言のように言葉を発する。
 コウは人込みの中に素早く隠れた。
 シノビの体から力が抜け、神輿から落ちそうになるのをあわてて周囲の者が支える。
 それを見ていた人込みの中からもざわめく声が次第に大きくなっていった。
「シノビ様の預言が始まった。これより速やかに本殿に戻る」
 先頭にいた灰色の装束を着た男は、他の信者に素早く指示を出した。
 信者たちはすぐに何もなかったように本殿へと戻っていった。

「シノビ様が預言を始める所が生で見れるなんて、すげえ事だぜ」
 的屋の親父は両手を合わせて拝むしぐさをした。
「そんなに珍しいの?」
 アヤは理解できないとでも言いたそうに眉をひそめた。
「珍しいも何も、あの方が口を開いた時には必ず何かが起こるんだ。まちがいねぇ」
 そこにコウが戻ってきた。
「おまいさん、いったい何者なんだい?」
 親父はコウに向かって目を丸くして言った。
「シノビ様が人に向かって口をきくなんて、今まで一度も無かった事だぜ」
「そんなの、こっちが聞きたいくらいですよ」
 コウはシノビの顔が忘れられず、冷や汗をかいていた。
 底無しの暗黒のような目だった。見ていると吸い込まれそうで、彼はあわてて目をそらしたのだ。
 ―――まるで、襲来甲に見られているみたいだった。
「何なんだ…一体……」
 何事もなかったかのように祭りを再開した参道で、コウは社の方を見ながら汗をぬぐった。

 シノビは神輿から下ろされ、頑強な信者に背負われていた。
 灰色の男に先導されて、白装束の集団はあわてふためいて拝殿の奥へと小走りに入っていく。
 シノビの顔には汗がにじみ、口に塗った紅が衣装にこびりついていた。
「ナラク様、どうなされたのですか?」
「シノビ様の様子がおかしい。拝殿に戻る」
 灰色の男は、社の中の信者にそう伝えた。
「奥の院の扉を開けろ」
 ナラクと呼ばれた灰色の男は、扉の番人をしていた男に命令する。
 番人がそばの回路のスイッチを入れると、どこからか重々しい歯車が回る音が響き、目の前の扉がゆっくりと開く。
 鉄板の厚さが1メートル程もある扉が開くと、自動的に内部の電気が点く。
 体育館ほどもある大きな部屋の中央に、小山のように巨大な白い塊がうずくまっていた。
「シノビ様を、オロチのそばに下ろしてやれ」
「はっ」
 シノビを担いでいた男は、彼女を白い塊のそばに下ろし、あわててその場から引き返していった。
 シノビは手を伸ばし、白い塊に抱きついた。
「まだ、オロチの力が必要か……」
 ナラク達はシノビを見守った。
 彼らがオロチと呼ぶ白い物体からは、八本の首と、無数の節足が生えている。
 それは、人によってはヒドラとも呼ばれるものだった。
 オロチは死んだように動かない。傍からは、とうの昔に活動を停止しているように見える。親に抱かれた赤子のように、シノビはオロチに寄りかかって目を閉じていた。
「落ち着いたようだな」
 ナラクは、シノビの様子を見て安堵する。
「さようで」
 番人はうなずいた。
「神輿から落ちそうになった時はどうなるかと思ったが」
「シノビ様の悲しみは、オロチの悲しみ。シノビ様の怒りは、オロチの怒り。シノビ様に何かがあればオロチも事をおこしまする。気をつけていただかねば」
「だからこそ、シノビ様が語った事が気になる…『新しい仲間』と仰られていた」
「新しい仲間?いったい誰に向かって語ったんでしょうか」
「分からん。しかし間近で見た者は多い。必ずそのものを突き止めねばな」
 ナラクと番人が見守る中、シノビはオロチの懐でゆっくりと眠りに落ちていった。



 次の日、コウは遅く目を覚ました。
 寝床のそばに置いた腕時計の針は9時を回っている。
 部屋を見回すと、コウと谷古田の布団だけが大部屋の中に残っていた。未羽とアヤは既に起きているらしい。
 昨日露天で手に入れた5匹の金魚は、部屋の隅の、明海が用意してくれた金魚鉢の中で、朝日に包まれながら泳いでいる。
 風鈴の音が心地よく鳴る。
 コウはあくびをした。学生時代の日曜日のようなのどかな気分だ。彼はゆっくりと起き上がって顔を洗いに行く事にした。

 顔を洗って台所に入ると、テーブルの上に食パンとジャムの瓶が置いてある。
 よく考えたら、これも生臭物ではない。ご丁寧にトースターもあった。
「明海さんはこんな物を食べるのか…」
 コウはそれらをいぶかしげに見ていると、未羽が台所に入ってくる。
「コウ、おはよ」
「おはよう」
 二人は挨拶を交わす。
「それ、アヤと谷古田さんたちが持ってきた物なんだって」
 アヤはトースターを指差した。
「なんだ。どうりで」
 コウは頭をかく。
「コーヒー、入れようか」
 未羽は台所の棚からインスタントコーヒーの瓶を取り出した。
「うん。頼むよ」
 コウは食パンをトースターに差し込みながら返事をする。
 未羽は食器棚からマグカップを2つ取り出した。

 お湯がわく間に、狐色に焼きあがった食パンがトースターから飛び出してきた。香ばしいバターの臭いがコウの鼻をくすぐった。
「乳製品は食べていいのかどうか…」
 コウはちょっと考えた。
「お釈迦様も食べていたからいいんだって、和尚さんは言ってたよ」
 今では保管庫として使われている冷蔵庫には牛乳瓶も入っている。近所の牧場から頂いたものだと言う。
 コウは焼きあがった食パンにバターを塗り、かじりついた。
 未羽がコーヒーの入ったマグカップをコウのそばに置いた。いつもは粉末乳を入れて飲むが、今日は牛乳を注ぎ込む。
 これくらいの事でも、すごく贅沢な気分になった。なにしろ、冷蔵庫が使えなくなった今では牛乳なんてそうそう手に入る代物ではなかったからだ。
「久し振りに気持ちよく眠れたよ」
「そう、良かった」
 未羽は自分のコーヒーを口に運びながら笑った。
「怯えなくて済むなんて、ずいぶん久し振りだもんね」
「香月、元気にしてるかなぁ」
 コウはふと、東京にいる香月の事を思い出した。あいつにもこの安らぎを分けてやりたいと思った。

 そうしていると、谷古田が台所に入ってくる。
「…おはようさん」
 眠気で不機嫌そうな顔をして、谷古田が挨拶をしてきた。
 コウ達も挨拶を返す。
「俺の分も焼いといてくれ。2枚な」
 谷古田はそう言って、荷物が置いてある隣の部屋を覗き込んだ。
「あれぇ…。どこ行ったんだろう…」
 頭をかきながら、彼はそうつぶやいた。
「何探してるんです?」
 コウはコーヒーを片手に持ちながら訊いた。
「ん、俺のジャケット」
「昨日、アヤが着てましたよ」
「何ィ!?ホントか」
 谷古田は目を丸くした。
 二人はきょとんとしてうなずく。
「まったく!あいつめ…」
 彼は眉を吊り上げ、足取りも猛々しく部屋を出て行った。
「何があったんだろう…」
 未羽はその後姿を目で追いながら、ぼそっとつぶやく。

 しばらくして谷古田が戻ってくる。手には携帯電話を持っていた。
「ジャケットはどうしたんですか?」
「ジャケットは別にいいんだ。いるのはこれだけさ」
 そう言って携帯電話を掲げると、それをポケットに突っ込んだ。
 谷古田の分のパンがちょうどよく焼きあがる。
「俺の分もコーヒーを頼む」
 彼は未羽に頼みこむ。彼女はうなずいて席を立った。
「今日は神里さんの所に行くんですよね」
「そうだな」
 谷古田は椅子に座り、パンにブルーベリージャムを塗り始める。
「それにしてもどうして、僕みたいな人間が計画に必要なんですか?」
 コウは谷古田に尋ねた。谷古田は黙ってパンをかじる。
「僕より戦いに向いた人はいくらでもいるのに」
 コウはカップを口に運ぶ。
「俺も良く分からんのだ。ただ、あいつが言うには、脳に適応力がある奴じゃないと駄目だって事だな」
「適応力?」
 未羽がコーヒーを谷古田のそばに置いて、質問する。
「要するに、頭が固いと能力があっても務まらんという事だな。だから年齢制限がある」
「そうなんですか…」
「とりあえず、百聞は一見に如かずだ。これを食べ終わったら出かけるとしよう」
 谷古田はそう言って、ものすごい速さでパンを食べていく。
 その様子はあまり美味しそうに見えないが、彼にはそんな事はどうでもいいのだろう。
 コウはコーヒーの残りを飲み干し、自分の食器を流し台に運んでいった。

 青木ヶ原の研究所では、神里が食事を取っていた。
 彼はそもそも食べる事に興味がない。食事は全くの不定期で、取らない時もある。
 窓のない部屋で小さな明かりのもと、支給品のクラッカーを水で喉に流し込む。
 入り口のドアが開いて、女が入ってきた。
「サラマ、何か用か?」
 神里は振り向きもせずに言う。
「谷古田から連絡が入ったよ。今日の午後に素養者を連れて来るって」
「そうか。検査はちゃんとしているんだろうな」
「彼の事だから、抜かりはないと思うわ」
「今回は年齢を上げてみるという事だったが……」
 神里は食事を終えると、席を立つ事もなくその場でノートパソコンを開く。
「喰われる危険性が減る代わりに、適応する可能性も減るわけだが。難しいな」
「そうね。私みたいに…」
 サラマは悲しそうな顔をする。
「お前が乗れたら、たくさんの子供が犠牲になることも無かったんだろうが」
 神里は写真付きのファイルを立ち上げて眺めていた。
 そこには子供の顔と、様々なデータが記されている。皆、過去の実験に失敗したサンプルだった。
「ごめんなさい…」
「謝る事はない。これは本人の意思とは関係ないのだから」
 神里は次々とページを開いていく。少年、少女、子供達の顔が次々と現れる。
 これらの失敗を基に、神経と回路の間に干渉するMUTE(ミュート)という障壁プログラムを開発する。そしてそれを介在させるようになって、以降の実験はかなり安定するようにはなった。同時にパワーも落とさざるを得なくなったが。

 今がどういう時なのかは神里には良く分かっている。自分がやっている事がいかに罪深い事なのかという事も。
 だが、今は奇麗事を言っている時ではないのだ。何としてもやらねばこちらがやられる。実験で犠牲になった子供達もそれは理解していた。
 しかしそれでも、彼の心の中にしこりが残る。これが完成すれば、確かにヒドラは倒せるだろう。もしかすると石板さえ落とせるかもしれない。
 だがそんな力を得て、それから人間はどうなる?その力が彼の支配から逃れた時、どう使われるのだろうか。
 石板がこの星からなくなった後、残った力はどういう風に使われるのだろうか…。
 彼にはその事が頭から離れなかった。それはもはや政治の領分だ。
『大いなる目的を失った政治は愚劣な綱引きにしか過ぎん…。そして世界の大多数はそれによってのみ生きる』
 だから彼は世の中の一切から身を引き、研究の世界に没頭しているのだ。そこには目指すべき真実と、真理の前での厳然たる秩序があったから。

 最新のページは、まだ何も書かれていないテンプレートの状態で神里の前に広がっていた。
 また、新しいサンプルが一人…。
 先のことはどうあれ、これは成功させなければならない。今となっては、彼自身も駒の一つに過ぎないのだ。
 神里はパソコンを閉じた。
「サラマ、すまないが迎えてやってくれ。橘甲樹という少年を…」
 神里は立ち上がり、そばに横たわる人型の機体の点検に入った。
「わかったよ」
 彼女の返事。そして、入り口のドアが閉まる音がする。
 研究室は、小さな明かりが一つだけ点いている。
 それに鈍く照らされた白い巨大な人影は身動き一つせず、神里のなすがままにされていた。

 青木ヶ原樹海を迂回するように走った国道から、樹海の中へ伸びる道がある。そこを進むと神里のいる研究所にたどり着く。
 コウ達を乗せた車はその道を進む。
 かつては細い林道だった道は急ごしらえの拡幅工事によって幅広い砂利道に姿を変え、トラックのタイヤは盛大に砂利を噛み締めていた。
「ここを切り開くのは大変だったんだ。何しろ地盤が岩だからな」
 青木ヶ原樹海は、もともと溶岩の上に出来た森だ。道を広げようにも土を削って均すという訳にはいかない。
「それにしても、こんな悪趣味な所にいたがるなんて、神里って人も奇特だね」
 アヤが、窓から暗い森林を覗き込みながら言う。
「理由を言えば長くなるが、あいつが襲来甲を調べた結果、奴らが位置確認に地磁気を使っているという事が分かったんだ」
 そう言って神里は、ダッシュボードの上に置いてあるコンパスを他の者に見せた。
 その針はめまぐるしく動き回り、一向に定まる様子がない。
「ここが帰らずの森になっているのは、岩盤に磁力を持った鉄が混じってて、地磁気を狂わせているからだな。だからコンパスが役に立たない。森の中で方位が分からないのは致命的だからな」
「へぇ…みんなが自殺に行くわけだ」
 アヤは妙な論法で感心する。
「コウはよく知っていると思うが、襲来甲の殆どは一定期間の活動の後、充電の為に石板に戻らなければならない。戻れなかった奴は休眠状態に入って動けなくなる」
「ここに来ると戻れなくなってしまうんですね」
 コウは納得した。
「その通り。だからここは他のどこよりも安全だ。しかも、戻れなかった襲来甲は格好の研究サンプルになる」
「すごい、頭いいなぁ」
 未羽は感心した。
「ここを切り開いて対襲来甲の基地にするという案もあったようだが、埋め立てで均したら磁気を乱す効果もなくなるという事で流れ、やむなく研究所だけを建てる事になった」
「優遇されているんだね」
「まぁ、最後の切り札なんだから当然だろうな」
 目の前の森が開け、コンクリート製の真新しい建物が見えてきた。
「お、見えてきたな。あれが研究所だ」
 灰色の大きな箱のようなその建物は、昼の陽光を反射してまぶしく見えた。

 一行が研究所に着くと、褐色の肌をした長身の女が出迎えてくれた。
 燈色のシャツに茶色のスカート、体に不釣合いな小さく白いエプロンを着け、そして機関銃を肩に担いでいた。
「よく来たね。谷古田」
 少しハスキーな大声で女は話し、そして笑う。
 トラックは止まり、谷古田が運転席から降りる。
「サラマ、変わりはないか?」
「何にも心配はいらないさ。私がついてるんだからね」
 女は銃を肩に担ぎ、大声で笑った。
「お前も相変わらずだな」
「その子が、今度の適応者かい?」
 サラマはコウの方を一瞥して尋ねた。
「まぁ、そんな所だ」
「私の名はサラマ。よろしく」
 サラマは銃を持っていない右手を差し出し、コウと握手した。
「よ、よろしく」
 コウはサラマの気迫に押されっぱなしで、なすがままに握手する。彼女の手に強く握り締められて、コウの右手は少し痛んだ。
「今日は他の仲間も連れてきた。いいだろ?」
「私は別に構わないけどね。神里が嫌がるかもしれないけど」
 サラマは車から降りてきた未羽とアヤを一瞥して、谷古田に耳打ちした。
「よろしく〜」
 アヤはいつも通りにくだけた挨拶をする。未羽はその隣でお辞儀をした。
「いい子達だね。まぁ上がんな。ちょうど昼飯の用意をしてた所だ」
 そう言って、サラマは研究所に引き返していった。

「気をつけとけ…あいつは戦闘のプロだ。並みの男なんざ一ひねりだからな」
 コウは握手した時の握力で、彼女の怖さは少し理解出来たような気がする。
「並み居る男どもを差し置いて、アメリカ海兵隊に特別留学した程の腕だからな…怒らせると…」
 谷古田はコウにそう告げて、自分の首を絞めてみせる。
「こら、そこの男達、だべってないで早く来な!」
 サラマがドアから顔を出し、コウと谷古田に入場を促す。
 未羽とアヤはさっさと中に入って、気が付けば残ったのは二人だけだ。
 二人はそそくさと入っていった。

 研究所の中は大雑把に二つに分けられていて、居住スペースと研究スペースとで構成されていた。
 たまに派遣されてくる研究者の寝泊りも可能なように、居住スペースは2LDKのマンションほどの広さがある。
 部屋は明るい緑の壁紙が張られ、食器も衣服も綺麗に片付けられている。
 ちなみに、ここに運ばれてくる物資の殆どは谷古田の手によって持ち込まれたものだった。
 思いの他生活臭が漂う空間に、谷古田以外の3人は驚いた。
 炊事場ではパスタを煮る鍋から湯気が上がっていた。炊事の省力化ができ、なおかつ保存がきく食べ物というと、どうしてもパスタ等の小麦製品に偏りがちになる。
 10人ぐらいは席につけそうな大きいテーブルには水色のテーブルクロスがかけられ、白い皿が5枚、その上に置いてある。
「あんたたちの分も用意しといたよ」
 サラマは炊事をしながら言う。
 谷古田は皿の数を数えた。
「神里の分はどうした?」
 その言葉を聞くと、サラマの表情は曇った。
「彼は、いつも一人で食べるから…」
「相変わらずだな、奴も」
 谷古田は頭を掻いた。
「お前がこんなに身奇麗に世話してるのに、それも興味無しか…」
「いいんだよ。私はあいつのそばにいれるだけでも」
「今度俺がびしっと言ってやるよ」

 パスタが茹で上がり、作っておいたソースと絡めて、野菜とキノコのスパゲティーが振る舞われた。
「料理は任せときな」
 サラマは皿に盛り付けながら、少し自慢げに言う。
「すごい本格的…」
 未羽は目を丸くする。
「お前は完璧すぎるから、男の立場がなくなっちまうんだな」
 谷古田は肘を突きながら口を尖らせた。
「それ、褒め言葉と取っておくよ」
 サラマは谷古田の皿に盛り付けながら言う。谷古田は苦笑した。

 サラマこと、本名、御堂寺サラマはインド系との混血で、彼女の褐色の肌は母親からの遺伝である。後ろに束ねられたつややかな黒髪は緩やかにウェーブし、鉛色の眼光は鋭く、長いまつげが美しい女性だった。
 彼女と谷古田が知り合ったのは、高校時代にさかのぼる。
 当時から優秀なスポーツ選手であった彼女が兵員の道を選んだのは、純粋に経済的理由からだった。
 おりしも日本が自衛隊による海外協力に取り組んでいた時期でもあり、両親の影響もあって英語が自然と身についていた彼女は、その能力を買われてアメリカに特別留学し、特殊部隊の技能を学んでくる。ゆえに彼女は最新兵器の使い方にも精通していた。
「本当はね、私はただの女でいたかったんだけどね」
 サラマはパスタを口に運ぶ時に、さらりとつぶやいた。
 コウは部屋を見回す。研究所というにはまるで場違いな、家庭的なしつらえが至る所に施されていた。この細やかな手入れも、彼女の願望の現われであるように思える。
「でも、今はこの力が役に立つから、後悔はしてないよ。本当はこんな事しなくても生きていけるようになればいいんだけど」
「サラマさんは、襲来甲と戦った事はあるんですか?」
 コウが尋ねる。
「うん。4、5回程。神里が言うとおりにやれば、たいして苦労はしないね」
 サラマはさらりと言ってのける。
「そんなに戦えるなら…」
「実験に参加しろって言うんだろ?」
 サラマは先回りして答える。
「これをごらん…」
 彼女は後ろ髪をまくり上げて、コウに自分のうなじを見せる。
 後頭部のあたり、小さな傷跡が、縦に3つほど出来ている。
「私は最初の実験体なんだよ……」
 それを見せられたコウは言葉をなくした。
 彼女は髪を元に戻す。
「私が乗れたら、あんたにも苦労をかけることはなかったんだろうけどね…。私の結果を元に、搭乗者の対象年齢を下げる決定が下されたんだ」
 サラマはテーブルに両肘をついて、過去を思い出すように言う。
「それから、ここの番人を買って出て、谷古田や基地の人達が何人も子供を連れてくるのを見てきた。あんたで9人目だ」
「今までの子供達は…」
「4人は私の時のように何も起きなかった。1人は神経をやられて、3人は死んで…」
 サラマは窓を指差す。
「あそこにいる」
 窓の外の草むらにはお墓が建っている。

 食事が終わって、コウはサラマと共に墓参りをした。裏庭の日当たりのいい場所に、3つの墓石が置いてあった。
「連れてこられた子供達は皆、あんたと同じように身寄りのない子だったんだ」
 サラマはコウの隣に立って言う。
 墓はそこらの石に名前を彫っただけの簡素なものだった。しかし、今はこうやってきちんと埋葬されるだけでも幸せなのかもしれない。大抵の亡骸は石板に運び込まれて消化されるか、朽ちるに任せるしかなかったからだ。
「せめて花ぐらいは絶やさないようにしようと思ってね。回りに種を植えた」
 墓石の周囲からは、白く小さな花が咲き出でていた。
 コウは今まで、自分の事で精一杯だったように思う。だから未羽も救ってやれなかった。自分にどれだけの力があるのか、彼には自信が無かった。身近にいる人すら救えない男にどれだけの事が出来るというのだろう。
「僕は、みんなの期待に添えられるか分かりません。未羽だって、アヤがいなければ立ち直れなかった」
 コウは墓石をじっと見つめながらつぶやく。
「僕はずっと彼女のそばにいたのに」
 サラマはコウの肩に手を添える。
「あんたは自分が出来る事を精一杯やればいい」
 風が吹いた。二人の髪が揺れる。
「それでも出来ないのはしょうがないじゃないか」
「でも、サラマさんに比べたら…」
「情けない事言うんじゃないよ。あんただって優秀なハンターじゃないか」
 研究所の窓が開き、アヤが手招きをしていた。
「行こう。神里が呼んでる」
 サラマはコウの背中をやさしく押した。



 屋内に戻ると、上から下まで真っ黒な衣装を着た、恐ろしく色白の男が立っていた。
「待たせておいて墓参りか…」
不機嫌な声。彼が神里だ。
「私が行かせたんだ。いいじゃないか」
 サラマはコウをかばう。
 神里は室内だというのにサングラスを外さないので、顔の表情がうかがい知れない。黒服から露出した肌の至る所に青い血管が浮き出ていて、異様な雰囲気だった。
「君が甲樹君か」
 神里は刺すような神経質な声で聞いてきた。部屋にいる他の者はみんな黙りこくっている。
「そうです」
 コウは答えた。
「よく来たな。覚悟はできているか?」
「はい」
 もうコウに迷いはなかった。
「では、早速手術に取り掛かろう。谷古田、データは持ってきただろうな」
「ここにある」
 谷古田は手に持っていた携帯電話を掲げてみせる。
「よし。それでは付いて来い」
 そう言って神里は奥の部屋に入っていく。
「残念だけど、ここから先は男達だけだよ」
 サラマは未羽とアヤに告げた。
「別に見たくもないだろうけど…」

 扉をくぐると一転して、明かりのない薄暗い廊下に出る。
「私は紫外線が苦手なんだ。悪く思わないでくれ」
 昼間だというのに、蛍光灯が灯っていた。
 廊下をまっすぐ行くと、両開きのドアがある部屋に突き当たる。神里が明かりをつけると、部屋の真ん中に手術台が浮かび上がった。
「手術に入る前に、君のデータを見せてもらおう」
「データ、ですか?」
「厚木で調べただろう。そのデータだ」
 谷古田が何も言わず携帯電話を渡す。
「悪いな、お前に渡したのはただのダミーだ」
 彼はコウにそう告げて、頭を掻いた。
「まぁ、あのゴーグルが使えるのだから、それなりに有望であるのは分かるんだが」
 神里はノートパソコンに携帯電話を繋ぐ。
「ゴーグル?襲来甲と戦う時に使うあれですか?」
「そうだ。あれは戦闘の補助だけでなく、使用者の脳波も測定する」
「それで何が分かるんです?」
「我々が欲しいのはある波形だ。詳しく言えば長くなるが、そのパターンがある人間はシステムに同調しやすいという事が分かっている」
 ダウンロードが終わり、画面にコウのデータを表示したウィンドウが次々と開いていく。
 神里はサングラスを外し、椅子に肘をつけたまま、その画面をじっと見ている。
 しばしの沈黙が流れる。
「なるほどな。谷古田が言うのも良く分かる。ここまで顕著なのは久し振りに見たよ」
「前にもいたんですか?」
「ああ」
 神里はサングラスを取った。切れ長の青い目が、少し悲しげに目元を震わせる。
「彼女は、『喰われた』。私の不注意によってな……」
「喰われた…?」
「彼女はあまりにも同調し過ぎた。そして、当時の私は機体の性能を引き出す事を優先させ過ぎた…。その前に三人の子供を亡くして焦っていたせいもある」
 神里は目を細め、顔が悲しげに歪む。
「リミッターが外れて過剰なフィードバックが起き、彼女の神経はその負荷に耐え切れなかったのだ」
「おいおい、これからやる奴をそんなに怖がらせてどうする…」
 谷古田が神里の話を止めようとする。
「だからこそ知っていて欲しいのだ。私は安全のために機体の能力を落とした。でももし君が望むなら…」
「リミッターを外す、という事ですか」
 コウが答える。
「そうだ。君が動かせば動かすほど、データは取れる。君はいわばモルモットだ」
 神里はこともなげに言う。
「言い過ぎだ馬鹿…」
 谷古田はコウのそばで目を覆っていた。
「そんなにデータを集めてどうするんですか?」
「そのデータがあれば、それを元により汎用性の高い機体も作れるようになるんだ。それには今まで乗れなかった人間も乗れる。そうすれば我々は勝てるよ」
 コウはサラマの事を思い出した。
「責任重大、ですね…」
 神里は何も言わず、かすかに笑う。
「それでは手術にかかろうか」
 神里は椅子から立ち上がった。

 手術は首筋の皮膚を開いて、インプラントを埋め込むだけのものだ。局部麻酔でものの30分程度で終わる。
その後、コウの首には傷口を広げないように包帯が巻かれた。
「これはクンダリニ・システムの接合点だ。インプラントしたのは雑音を取り除くためだ」
 神里が言う「クンダリニ・システム」とは、神経と機体の操縦系統を接合してコントロールするシステムの別称だった。
 クンダリニとはヨガで言う精神が覚醒に至る状態であって、それと機体の覚醒を結びつけた命名だという。
「傷口が塞がるまで待つ必要はない。麻酔が効いているから多少の無理はきくだろう。来てもらおうか」
 神里はコウと谷古田を別の部屋に案内する。

 手術室を出て、3人は地下室へと降りる。
 先頭の神里は電気を点けた。
 そこは天井の高い大部屋になっていて、壁は頑丈な鉄板で出来ていた。
 その真ん中に、白い巨人が、これまた巨大な鉄製のベッドに横たわっていた。
 身長はだいたい8メートル。手にはいびつな5本の指、足には3本の鉤爪。
 顔には大きな一つ目があり、半透明の覆いの中から透けて見える。
 無数のケーブルが体のいたるところから延び、隣にある制御用のコンソールに繋がっていた。
「襲来甲…?」
 コウが思わずつぶやいた言葉に神里が反応する。
「そうだ。基本的なパーツは襲来甲をベースにしている。君がそう思うのも無理はない」
 神里はそう言いながら、コンソールの電源を入れる。
「襲来甲の骨格は金属炭素で出来ている。それがないとこの体を支えられない」 
 コウはその機体の周りを見て回った。
 鎧のような白い装甲の隙間から、黒々とした骨格が垣間見える。
「心臓から制御装置まで、こいつはいわば襲来甲の寄せ集めだ」
 コンソールのそばの椅子に座り、神里は作業を始めている。
「名前は何ていうんですか?」
 コウは神里に聞く。
「型番はHW-003。ピクシー(妖精)という愛称ならある」
「ピクシー、ですか…」
 背中から飛び出た4本の翼が、その由来だという。巨大でいかついこの機体には不釣合いな名前だと思った。
 神里が命令を入力すると、ベッドが油圧ポンプの力で起き上がり始め、直立した状態で止まる。
「これを」
 神里は、コウにゴーグルを渡す。それは普段使っているのよりもずっと大きく、重く、おまけに光を通さない。
「それがモニター代わりになる。乗った時付けろ」
 それから、コウはピクシーの足元に立たされた。
 神里はベッドのそばのスイッチを入れる。コウの立っている足場がゆっくりとせり上がっていき、ピクシーの胸の位置で止まる。
 直立したピクシーは空気の抜ける音と共に、胸の部分から背中方向へ直角に折れ曲がった。
 コウは恐る恐る中を覗き込んでみる。
 その中は空洞になっていて、たくさんのスイッチパネルが並び、中央には大きな背もたれと短い座面の白い椅子がある。
「これに座って操縦する。操作は四肢対応のペダルとレバーがあるだろう」
 コウはおずおずと中に入った。
 リフトを使って、谷古田も上がってくる。
「あんまり緊張するな」
 コウはゴーグルをつけた。
「ここにスイッチがある」
 谷古田が指でゴーグルの脇をつつく。コウが手をやるとそこに円形のダイヤルが飛び出していた。
 ダイヤルをひねると、カチッという音と共にゴーグルが半透明になり、視界が開けた。
「首輪もはめないとな」
 背もたれとヘッドレストの間からコードにつながった首輪が出ている。コウは言われるままに首輪を取り出す。
「ちょっと傷口が傷むかもしれんが、我慢しろ」
 谷古田は、コウの首筋の包帯を巻いた上から首輪をはめた。
「手の操縦はグローブ型のレバーで、足の操縦は足元のペダルで、分かるか?」
「はい。何とか」
「とりあえず今日は難しい事は考えなくていい。動くかどうかが分かればいいんだ。そうだよな神里」
 谷古田は下を見下ろし、神里に尋ねる。
「そうだな。乗れるかどうかが分かればいい」
 神里はディスプレイを見つめたまま振り向きもせず、ぶっきらぼうに答える。
「そういう訳だ。ま、気楽に頑張れ」
 谷古田はそばのスイッチを押し、リフトを下げた。

 谷古田はリフトから降りると、神里のそばまで歩いていく。
「では密閉する」
 神里はそう言い、スイッチを入れる。
 ピクシーの胸から上の部分が持ち上がり、コウのいる操縦席に覆いかぶさった。コウの周囲は暗黒に覆われる。
 シュンシュンと、聞いた事のないマシンの駆動音がうなり始め、暗闇のコクピットの中に次々とLEDのライトが点っていく。
「甲樹君、聞こえるか?」
 ヘッドギアの耳の部分から声が聞こえる。
「聞こえます」
 コウは返事をした。
「通信はこれで行う。ただ、外では探知されるからこうはいかないが」
「もう動いたんですか?」
「メイン接続はこれから開く。覚悟はいいな?」
 通信に谷古田が割って入った。
「コウ、俺だ」
「谷古田さん…」
「ちょっと心配になってな。もしもの事があったら…」
「いいですよ。とっくに覚悟は出来てましたから」
 コウは少し笑う。
「そうか…お前は強いな……。どんな事が起きても心配するな」
「…もういいか?」
 再び神里に代わる。
「だいたい、MUTEを張ったんだから心配は要らないのに、何を言うかと思えば…」
「うるさい!俺にはトラウマなんだよ」
「ともかく、メイン接続を開くぞ」
「了解」
 コウのゴーグルから見える景色の隅に、緑色の文字が点滅する。

  “中枢回路接続”

 それを見た瞬間、コウの意識がなくなった。

 神里と谷古田は、コンソールのディスプレイを息を呑んで見つめている。
 画面には青いウィンドウが幾つも開き、それぞれに表示されたグラフが刻々と動いている。
「ピクシーの回路と神経を接続した。誰でも最初は失神する。問題はここから戻って来れるかだ」
「このまま逝ってしまうなんて事はないよな…?」
「MUTEが働くから、おそらくそれはない。神経は大丈夫だが、精神はどうなるのか保障の限りではないがな」

 コウの頭の中におびただしい情報が流れ込んでいた。
 外にいる二人にとっては一瞬の時間だが、その間にコウは数え切れないほどの視覚、聴覚、嗅覚、触覚の情報を叩き込まれていた。
 襲来甲の目から見た景色、壊れる前の町、空、血の味、焼けるような激しい痛み…
 全てが何の脈絡もなく訪れる。コウはもがいた。宇宙、ヒドラ、石板、銃声、光……
『ああああぁぁ!』
 体はまるで動かなかった。息が苦しい。炎。衝突。痛み。轟音……
 あらゆる感覚が同時に襲ってきて渦を巻き、コウの体はバラバラに引き裂かれそうだった。

 太鼓の音。

 急に音も光も消える。
『なんだ…』
 コウは心の中で呟く。
 静寂。暗黒。

 コウは神経を尖らせた。何かの気配がする。甘い柑橘類の臭い。
『とうとう、あえたね…』
 少女の声。
『力を…』
 暗黒の中で、少女の声だけが響く。
『めざめ…よ……』
 その声と共に、コウの視界が白く反転を始める。

「!!」
 神里は両目を見開き、ディスプレイにかぶりついた。
 目の前では、猛烈な勢いで緑色のウィンドウが開いて、画面は何十ものそれで埋め尽くされていた。
「おい!何が起きたんだ!?」
 谷古田は神里に詰め寄った。神里は汗をかいている。
「み…緑のウィンドウは…正常な状態を表す……。回路が開いた……」
 神里は震えていた。

 何かがコウの体のなかに入ってくる。
 暖かいものが彼の体を満たしていった。
『光……』
 まばゆい光の中で、何もかもが融けていくような感覚に包まれていった。


 ディスプレイ上に現れた無数のウィンドウは突然消え、画面が切り替わって一つの大きなウィンドウが開く。
 それは、全てのデータを総合的に制御するプログラムが作動したことを告げた。
「ケーブルを切断する」
 神里が命令を入力すると、ピクシーの後部につながっていたケーブルが切れる。
 機体の様子を、二人は息を飲んで見守っていた。
 ピクシーは直立したまま動こうとしない。
「動け…」
 谷古田は祈るようにつぶやいた。

 機体の中で、コウはゆっくりと目を開く。
 もう何時間も気を失っていた気がする。
 コウの周囲にはおびただしい数のセンサーが静かに点滅していた。
 いつの間にかひどく汗をかいている。顔から雫が滴り落ちた。
 ゴーグルを通して、外の景色が見えた。
 グローブの中で彼は手を握り締める。
 それに反応して、ピクシーの手が握り締められた。
「う、動く…?」
 コウは恐る恐る、右足のペダルを踏み込んでみた。
 ピクシーはゆっくりと右足を踏み出した…。

 その様子を外で見ていた谷古田は、マイクに向かって話しかける。
「コウ、動けるか…?」
「はい。何とか」
 神里が話しかける。
「コントロールできるんだな?」
「できます」
「では、台から降りてみろ」
 ゴーグルを通して外にいる二人が見える。まるで自分が巨人になったかのような錯覚を覚えた。
 足元を見ながら、彼はゆっくりと台の外に足を延ばした。
 機体のぎこちない動きに谷古田は心配になり、神里に尋ねる。
「バランスはどうやって取るんだ?」
「その為のインプラントだ。小脳は運動神経を支配しているから、ここからの入力があれば制御できるはずだ」
 神里はディスプレイのウィンドウ上のグラフを目で追いながら言った。
「センサーは正常に機能している」

 ピクシーは右足を台から下ろすと、そのまま片膝をついてしまう。
「大丈夫か?」
 谷古田はコウに語りかける。
「体が、思うように動かない…」
 コウがうめいた。
「どうする?」
「まだ接続時の衝撃が残っているんだろう。無理はしないほうがいいかもしれん」
「もういい。コウ、元の位置に戻れ」
「は…はい」
 コウはそう言い、機体を再び立ち上がらせようと試みる。
 時間はかかったが、何とか機体を元の位置に戻した。
「ゴーグルのダイアルを押してみろ。それで視界が切り替わる」
 コウは神里に言われるままゴーグルのダイアルを指で押してみる。視界が一瞬暗転し、その後コクピットの中を映し出した。コウは目の前で自分の手を開いたり閉じたりして、それを確認する。
 コクピットの中にはおびただしいボタンやスイッチが並んでいて、コウにはどれがどれだか分からない。
「中央のモニターの下の『停止』と書いてある赤いボタンを押してみろ。それで停止準備に入る。停止準備に入ったら全てが切れてハッチが開くまで待つんだ」
 液晶のモニターは何も映してはいなかった。今はそれが何に使うのかもよくわからない。
 その下には神里が言う通り、赤地に白い文字で「停止」と書かれているボタンがある。コウはそれを押してみる。
 それを押すと、唸りを上げていたエンジンが停止し、コクピット内のLEDが一つ一つ消えていった。
 コクピットが暗闇に戻った時、コウにはめられていた首輪がカチッという音と共に外れる。
 それから光が差してきたかと思うと、機体の半身が開き、外の景色が見えてくる。
「コウ、大丈夫か?」
 外には既に谷古田がリフトで上がってきていた。
「すごい汗だな…」
 コウの様子を見るなり、谷古田が言う。
 コウは自分の姿を眺めてみる。谷古田の言う通り、彼の服は汗でぐっしょりと濡れている。
「本当だ…」
 コウは服をつまんで笑った。

 彼がコクピットを出るには、谷古田の力を借りないといけなかった。体に力が入らず、自力でコクピットから這い上がる事も出来なかったからだ。
「まだ力が出ないか…」
 谷古田はコウを抱きかかえ、コクピットから引っこ抜いた。
「すいません」
 コウは懸命に手に力を込めるが、ぶるぶると震えて使い物にならなかった。
「生きて帰って来て、俺は嬉しい」
 谷古田はコウをしっかりと支える。コウは疲れた顔で笑った。
「今日はこれまでだ。回復次第、操縦の訓練に入ろう」
 神里はそう言って、コンソールをいじり始めた。
「私はデータの整理にかからなければいけない」
「そうか。それじゃな」
 谷古田はコウを背負ったまま、神里を残して地下室を後にした。

 それからコウはサラマのいる部屋まで運び込まれる。
「しっかり看病してやれ。これから大変な事になるぞ」
 谷古田はコウをソファーに横たわせて言う。
「という事は、動いたのかい?」
 サラマは谷古田に尋ねる。
「ああ。俺も初めて見たよ」
 谷古田は顔を高潮させて言った。話しているうちに喜びがこみ上げてくるのを止められなかった。顔がだんだんにやけてくる。
「よかったね。これから忙しくなりそうだ」
「俺は厚木と連絡を取る。整備班と研究員を回してもらわなければな」
 谷古田はそう言って、衛星電話をかける為に外に飛び出した。
「あんただったらやってくれると信じてたよ」
 サラマはコウに顔を寄せる。あんまり寄せてくるので、彼女の息づかいや臭いまで感じられた。
「そんなに…大げさな事…なんですか?」
 コウは力なく、小さな声で途切れ途切れに話す。
「あんたにはそう思えても、私達にとっては大した事なんだ。これでもうみんなの落胆する顔も、ぼろぼろになった子供たちも見なくて済むんだ。こんなにうれしい事はないよ」
 サラマの目には涙が見えた。こんなに強い彼女でも泣く事があるのかと、コウは思った。
「そ…ですか…。よか…た…」
 話す事もだんだん辛くなってくる。
「でも…なかな……」
 コウは言葉を言い終わらぬうちに力尽き、眠りに落ちていった。

 厚木に電話をしたついでに、谷古田は道明寺に戻って来ていた。
 未羽とアヤはコウの看病に残るといったので、研究所に置いたままだ。
 境内の駐車場にトラックを止めると、明海が小走りに彼の元へとやってくる。
「どうしたんですか?」
 谷古田は聞く。
「先程から浄光の社が騒がしいのですよ。何も、シノビ様の様子がおかしいとかで…」
 彼は明海に促され、寺の階段から浄光の社に双眼鏡を向ける。
 社の中は白装束の信者の数が増えているようだが、別段変わった所はない。
「そんなにおかしな所はないようですが…」
「あなたが来る前までは結構な騒ぎでした。鐘の音が鳴り響いてそりゃあもう…」
「そんなに気にする事はないんじゃないですか?」
 二人は住居の方に引き返す。その道すがら、谷古田は明海に頼み込んだ。
「それより、何か野菜を譲ってもらえませんか。コウ達にいい物を食わせたい」
「という事は、実験は成功なされたのですな?」
「ええ。これから忙しくなりそうです」
「それは良かった。私ももう供養をしなくて済むし、めでたい事です」
 明海は手を合わせて祈るしぐさをする。
「あの子供達の事は良く覚えております。あんなにいい子達が辛い選択をしなければならぬ今の世界は辛いものです」
 谷古田は何も言えなかった。
「俺にはあいつらの命を預かった責任がありますから。命を懸けるつもりでいます」
「無論、あなたは良くやっていなさる。あなたに出来る事を良くやっていなさる。しかし運命はそれでも辛い結論を出してくるものですな」
「出来る事なら、あいつらに代わって俺が戦えれば良かった…」
「それが出来ぬのは、さぞかし辛いでしょう」
「俺のように思っている奴はたくさんいます。でもこればかりはしょうがない」
「しょうがないものばかりです、この世界は。我々はそうでない所を一生懸命やるしかありません」

 二人は裏庭の小さな倉庫にやってくる。そこには畑で取れたじゃがいもやトマトや豆が箱に詰められて置いてあった。
「畑で採れた野菜はお好きなだけ差し上げます。どうせ私ら二人では持て余す量ですから」
「これを麓で売れば、良い商売になるんでしょうけれどねえ」
「私らは仏門の身ですから、商売にはなじみません。いつもただで差し上げる事にしています」
「無欲であれば辛い事もあるでしょう。今は生き残った者が残り少ない物を取り合う時代です。譲りすぎては身ぐるみ剥がされる事もある」
 その言葉に、明海は笑って答える。
「無欲だからこそ、私らは幸せなんですよ。辛い事があったとしても、それは一時の事にしか過ぎません。それに、何もなくても私たちは幸せですから」
「達観なされているんですね」
「仏門とは生きながら解脱を目指すものです。それは生きながら死者の心を得ることと等しい。死ねば皆仏というでしょう。生きながら仏になろうとするのが僧というものです」
 明海は箱の一つを手に持って言った。
 谷古田は腕を組んで目を伏せる。
「その生き方は美しいが、俺には無理だ。この世界でやらなければならないことが多過ぎるから…」
「我々は言ってみれば生け花のような存在です。それは美しいが、実を宿す事は出来ない。世俗で家庭を持ち、子を育てる中で美しくある道もあると、私は考えます。そして、美しいものはただそれだけで世界に必要なものです」
「俺は野の花であるほうが性に合っているようだ」
 谷古田は箱の一つを持ち上げて笑う。
 結局、谷古田は箱二つ分の野菜を譲ってもらい、それから寺を後にした。



 コウが目を覚ました時、時刻はもう夕方になっており、部屋は窓から斜めに差し込む光によって赤く染まっていた。
 まだ体がだるい。いつの間にか彼の上にはシーツがかけられていた。
 ゆっくりと上半身を起こし、彼は部屋の様子を見回した。
 台所では未羽とアヤとサラマの三人が何かをしている。
 コウは立ち上がろうとした。しかし足が良く動かず、膝を床に打ち付けてしまう。その音でサラマはこちらに気付いた。
「お、目が覚めたな」
 サラマは笑って言う。
「もう少し休んでな。あんたは神経が疲れているんだ」
「みんな、何してるんですか…?」
 彼は聞いた。話す事はそんなに辛くない。少しは回復しているようだ。
「谷古田が野菜を持ってきてくれてね。今夜は豪勢にいいもの作るつもりだよ」
「私達が手料理を作るんだから、ありがたくいただいてよね〜」
 未羽とアヤは笑って言う。
 三人ともジャガイモの皮むきに精を出していた。
「アヤは大丈夫なの?」
 コウは少し笑って聞く。
「失礼な。もうそんな減らず口が叩けるようになったのか」
 アヤがふくれっ面をしてこっちを見た。
「私が監督するから心配はいらないよ。母さん直伝のカレーを作ってやるから、楽しみに待ってなよ」
 サラマは笑って言う。
「そんなにアヤって料理下手なの?」
 彼女はアヤに尋ねた。アヤは悲しそうな顔で頷く。
「料理はね、舌で作るんだよ。味が分からないと駄目なんだ…」
 サマラが話すのが聞こえる。
 コウはもう一寝入りすることにした。
 機体の中で見たビジョンがまだ頭の中をぐるぐると回っている。
 それにあの少女の声…あれは何だったのだろう。まるで、機体そのものが喋ったように思えた。
 何もかもわからない事だらけだ。
 彼はゆっくり目を閉じた。

「厚木からは整備員を3名派遣するという事だ」
 谷古田が神里に向かって言う。
「3名か。少ないな…。厚木もだいぶ疲弊しているようだな」
「そう言うな。その代わり、キャリアを運ぶための専用トラックを寄越すそうだ」
「こちらには動きながらやれ、という事だな」
「まあそんな所だ。今までの予定がずれ込んでいるから仕方あるまい」
「ここともお別れか…。外には出たくないんだが」
 神里は椅子に深くもたれて、ため息をつく。
「それなりの事はするが、少しは覚悟しておけ。今度はお前が戦う番だ。太陽が苦手なんだろうが」
「髪は黒く染めたんだがね…」
 神里は、自分の髪をいじってみせる。
「少しは紫外線防止に効果があるかもしれん」
「全く、癌が怖くて生きてられるかよ」
 谷古田はあきれたように笑った。
「笑うなよ。私にとっては重要なんだ」

 コウが再び目覚めたのは夜の7時。
 陽はもうすっかり落ちて、部屋には明かりが点っていた。
 食事の支度は佳境に入り、彼の鼻を香辛料の香りがくすぐる。
 今夜の献立がカレーなのは、少しでも彼の食欲が湧いてくるメニューにしようという配慮だったのだろう。
 三人は楽しそうに喋りながら台所を動き回っている。特にサラマの張り切りようが眩しかった。
 よく考えたら、彼女はずっと男達の中で生きて来たのだから、女同士でにぎやかに話せる事が嬉しいのだろう。
 例え、未羽やアヤとの間にいくばくかの歳の差があるとは言っても。
 コウはゆっくりと起き上がる。体はだいぶ動くようになった。彼は立ち上がった。
「もう立てるようになったんだね」
 サラマはコウの姿を見ると嬉しそうに言った。
「だいぶ具合は良くなりました。ところで谷古田さんは?」
「神里とずっと話し込んでるよ」
 コウは台所を覗き込む。
「豪勢な食事ですね」
「久し振りに野菜が手に入ったからね」
「僕に手伝える事があったら言ってください」
「いいよ。もうあらかた済んだ。未羽もアヤも優秀だったからね。あんたはそこで漫画でも読んでればいい」
 サラマは笑いながら、本棚を指差して見せる。
「でも、ここのはもう読んだのばっかりだし…」
 コウは首筋を掻いて苦笑いする。

 しばらくして、谷古田と神里が部屋に入ってくる。
「お、今日はカレーか」
 谷古田は喜んだ。
「私は何でもいいがな…」
 神里はつれない。夜になったのでもうサングラスはしていないが、かけている眼鏡を指で押した。
「神里ぉ、お前も少しは嬉しそうな顔をしろよ。今日はお前にとっても歴史的な日じゃないか」
 谷古田は神里の背中を強く叩いた。
「そういうのは苦手なんだ…」
 しかしかすかに笑っていた。
「カレーとは、まるで林間学校だな…」
 神里は呟くように言う。
「少し、懐かしいな…」
 彼は、ほんの少し笑った。

 全員が席について、食べ始める。
 本物のスパイスを使ったカレーライスは、コウが今までに食べた事がないくらい美味しかった。味も香りも深みがまるで違う。
「この味、この香り、参ったな。今まで食ってたカレーが小麦粉で出来ているみたいに思える」
 谷古田は一口食べて目を丸くした。
「たかがカレーと思っていただろ」
 サラマはいつになく喜んでいるようだった。
「すまん。俺が悪かった」
「香辛料は保存が利くから、ずっと取っておいたのさ。たくさんあるから好きなだけおあがり」
「サラマさんって、本当に何でも出来るんですね」
 未羽が少し興奮気味に話す。
「まぁね、カレーは母親の直伝だし。実家は料理屋だしね。自然と身についたって訳」
「これは、生まれの違いを思い知るなぁ…」
 アヤはため息をついた。
「あんたも頑張りなさい」
「今日から師匠と呼ばせてもらっていいですか?」
「馬鹿。何かしこまってんのよ」
 会話を弾ませている四人のそばで、コウは笑いながらそれを眺め、ゆっくりと食事を進める。
 神里は黙々と食べている。この人はそもそも会話に興味がないみたいだった。

 一通り食べた後で、谷古田がかしこまって話を始める。
「ところで、明日からの予定だが…」
 その言葉に、他の人間は自然と耳を傾ける。
「全員でここを出る事になりそうだ」
「反攻が始まるんだね」
 サラマは言う。
「そうだ。だいぶ予定がずれ込んだせいで時間がない。機体のテストと訓練は、実戦で覚えてもらうしかない」
 谷古田はコウを見る。
「コウには辛いと思うが、俺達は全力でバックアップするつもりだ」
「厚木からの支援はどうなるの?」
 サラマは聞いた。
「機体の交信に使う通信車と、運搬に使う輸送車。あとはそれを動かす為の人員3名」
 谷古田が手を組みながら言う。
「少ないね…」
 サラマの表情は曇る。
「量産機の組み立て中で、こちらに回せんらしい」
 谷古田は弁明する。
「量産機、ですか?」
 コウが神里に聞いた。
「ピクシーと同じように、襲来甲の骨格を集めて作っている機体だ。ピクシーと違って装甲は戦車と同じ素材になっているがね」
「いつの間にそんな物を…」
「そもそもこの計画は奴らの襲来間もない頃から存在していた。つまり、私が開発していた制御系の完成が遅れていたという事だ」
 神里は自嘲気味に呟いた。
「前線にいる奴は、自分達の武器で勝ち目があるかどうかなんてすぐに分かるのさ」
 と、谷古田が言う。
「制御系のプログラムを挿入すれば、ほぼ問題なく使えるようになる」

「問題はルートだが…」
 谷古田はテーブルの上に地図を広げる。
「今回は行きより大所帯だから、道の広い所を行くしかない。しかし、御殿場方面はちょっと危険だから、大月方面に進む事にする。そこから横田基地を目指す。」
「また山賊に襲われたら嫌だもんねぇ…」
 アヤは当時の事を思い出しながら言う。
「御殿場って、そんなにひどいの?」
 サラマがアヤに尋ねる。
「それがさー」
 アヤはその一部始終を彼女に話し始めた。
「そこの二人、話脱線しすぎ。聞いとかないとどうなってもしらねーぞ」
「大所帯って言いますけど、編成はどうなるんですか?」
 コウは尋ねる。
「ピクシーとそのキャリアが一つずつ、それを牽引する大型トラックが一台。運搬用の中型トラックが二台。人員が乗るバスが一台。こんな所だ」
「バスだと…修学旅行でもするつもりか?」
 神里が頭を抱えて言った。
「適当な車両が無かったんだよ。バスでいいだろ。たくさん乗れるし」
「やれやれ…とんだ貧乏部隊だ」
 神里はため息をついた。

 長い食事が終わり、一行は眠りに着く。
 神里は一人研究室に戻り、そこで休む。他の者は居住室のベッドで眠った。

 二日目は厚木からの人員の到着を待つために費やされる。
 コウの状態はほぼ回復した。
 彼は地下室で、神里に機体の操縦についての分厚いファイルを渡された。
「これを読んで頭に入れておけ。死にたくなければな」
 神里は過酷な事を平気で言う。
「出来るだけ操縦は感覚的に行えるようにしてあるが、入力しないと呼び出されない行動がたくさんあるからな」
 コウはそれに目を通した。ただ動くだけではなく、背中のエンジンを使って空を飛んだりも出来る事に、彼は驚きながら読み進んでいく。
「ここでは飛ぶ事は無理ですね」
「空を飛ぶのはエネルギー消費が激し過ぎるし、敵の目にもつきやすい。実戦で使うのが無難だ」 
「エネルギーはどうやって補給するんですか?」
「発電はヒドラの炉を用いている。超小型の核融合炉で、燃料は水。正確には水素だ」
「何でも借り物なんですね…」
「仕方ない。人類にはこれだけの物を作れるだけの力はまだないんだ。しかし、解析は進んでいるから、必ずものに出来るだろう」

 それから彼は、その日は神里と谷古田の手ほどきのもと、機体の操縦の訓練に明け暮れる事となった。
 今回は、最初に乗った時のような衝撃はほとんどなく、彼は安心した。
 だが、何者かの気配がずっと付きまとっていた。彼にはそれが何だか分からなかったが。
 機体から降りた後、彼はその事を神里に告白した。
「そんな事はありえない。あれはただの機械だ」
 神里はただ首を振るばかりだ。
「あれのコアは3次元構造の量子コンピューターなんだろ?量子の振る舞いが意識を生み出すって本を読んだ事があるぜ」
 谷古田が言う。
「それはただの仮説だな。第一、振る舞いが似ていてもそれに意識があるとは断言できない」
 それを聞いていたコウが口を開いた。
「実は言うと、機体が動く前、声がしたんです。女の子の声でした…」
「声だと?それは君の無意識が聞かせた幻聴だよ」
「あれが機体の声なのかも」
「馬鹿な…」
 それから神里はすこし考え込んでいた。

 機体から降りた後、コウはファイルを読むことに没頭した。
 未羽とアヤはサラマと共に家事をしたり、武器の使い方を教わったりして過ごしていた。
「それ何?」
 未羽がコウの読んでいるファイルについて尋ねてくる。
「説明書。機体のね。覚えなきゃいけないんだ」
「受験勉強みたいね」
「うん。一夜漬けしなきゃ」
 コウの言葉に、未羽は笑う。
「大変だね」
「でも、やらなきゃ」

 夜、厚木からの人員達が車両と共に研究所に到着する。
 今日の夕食もサマラたちの手によって派手に振舞われた。無論、来てくれた隊員たちに歓迎の意こめての事だった。
 コウも参加した料理は、いろいろな野菜の天ぷらやフライだった。
 10人がけのテーブル一杯に広げられたそれは、程なくしてみんなの胃袋に納まる。
 バスのシートは倒せるようになっており、そこにコウと未羽とアヤの3人で泊まることになった。

 夜空は見事な満月で、明かりをつけなくても光が窓から差してくる。
 三人はそこではしゃぎながら転がっていた。
「やれやれ、元気なもんだな」
 窓からその様子を眺めながら、谷古田は小さくため息をついた。
「何だかんだ言っても、あいつらまだ子供だ」
「あんただって、若い頃はあんな感じだったじゃないか」
 サラマがそばに寄ってきて、谷古田の肩に手をかける。風呂上りで髪を後ろに束ね、体からはほのかな石鹸のにおいがする。
「懐かしいな。親の車を借りて、三人でよく走ったっけ」
「あの頃は、神里も今ほど気難しくはなかった…」
 そう言って、サラマは目を閉じる。
「お前が俺じゃなくて神里の所に行くなんて、あの頃は考えもしなかった」
「まぁ…ね」
 サラマは笑う。
「彼は、私がいないといけないから…。それに、あんたは名家の息子だったし。私には住む世界が違うと思えたんだ」
「ほんと、皮肉だよな…」
 谷古田は肘をついてため息を吐いた。
「あの襲来がなければ、俺達はバラバラになっていた…。それに、あの子達とも出会う事もなかったろう。そしてエリート街道を突き進んで、今頃すごく嫌な奴になっていたと思うぜ」
「そうだね…」
 サラマは彼のそばに立ち、同じように外を見る。
「…縁というのは不思議なものだよな」
 夜空の満月がやけに眩しかった。
「さて、俺も風呂に入るか…」

 同じ頃、浄光の社では、白装束に白い頭巾をかぶった学者達が慌しく動き回っていた。
「もう落ち着いたか?」
 ナラクが学者の一人を捕まえて尋ねる。
「はい。しかし、これで二日連続です」
 学者の一人が怯えた顔でナラクにそう告げる。
「こうも立て続けに騒ぎが起きますと、信者の中に動揺が広がります。しいては、我が教団の結束にも影響しますゆえ…」
「いったい何が起きているというんだ」
 ナラクは奥の院に進みながら言った。
「一種の共鳴ではないかと」
「共鳴?」
「シノビ様の心はどこかと繋がっておいでです。そこに何らかの変化が起き、それに影響されているのかもしれません」
 祭壇の扉が開かれ、ナラクと学者は中に入っていく。
 シノビはオロチの横で安らかな寝息を立てていた。
「先程落ち着いたばかりですので、むやみに刺激しない方がよろしいかと」
 学者はナラクに告げた。
「オロチの様子はどうだ?」
「オロチはそもそも動けませぬ」
 オロチと呼ばれているヒドラは微動だにせず、八つの首はだらりと床に垂れ下がっている。
「自力で発電が出来ないのです」
「そんな事は分かっている」
 オロチの目は赤く、鈍い光を放っていた。
『明日こそ大祈祷の日だというのに、ここで目覚められたら全てが終わってしまう』
 ナラクはオロチをにらみつけた。
「お前はなぜ、ここに入った?」
 ナラクは学者に向けて聞いた。
「ここは私の力が発揮できますゆえ」
 それを聞いて、ナラクは大声で笑う。
「学に殉じる者らしい言葉だな…。巷では襲来甲から身を守るためにここに来る者が多いと聞く」
「確かに、シノビ様の様子を見れば、それも真実味を帯びましょう」
「私は、それをさらに推し進めたいと思っている。そうすれば、教団の名は世界に鳴り響くであろう。そのための大祈祷だ」
 ナラクはオロチを見上げて、高潮した面持ちで話した。
「来い」
 ナラクは祭壇の外に出て行き、学者もその後をついていく。

 ナラクは学者と共に本殿の東にある倉庫に入っていった。
 ナラクがカードを差込むと、重い鉄の扉がゆっくりと開く。
 中にはたくさんのフジツボが、青白い火花を放ちながら転がっている。
「明日の大祈祷では、これをオロチの周りに並べろ。大祈祷は特別な儀式だからな」
「こんなものを、どこで…」
 学者は額に汗をにじませ、驚きの表情を浮かべる。
「私が秘密裏に集めさせておいたのだ」
「しかし、これは…いや、これでは……」
「お前たちが調べた結果は、シノビ様はオロチと心を交わす事が出来る。そうだな?」
「確かに、そうですが…」
「シノビ様はオロチを操る事も出来た。今までオロチがシノビ様のそばに付き従っていたのがその証拠だ」
「それは…、オロチが完全に目覚めていないためです」
「目覚めるも目覚めないも同じ事だろう。オロチはそもそも意思のない存在なのだから」
 ナラクは学者を見据えて話を続ける。その学者は何も言えなかった。
「皆の前でシノビ様に目覚めたオロチを操らせて見せようぞ。そうすれば、我が教団は今よりもずっと強大になれる」
 学者は汗をかいて震えていた。
「しかし、もしそれが上手くいかない時は…」
「私は熟考に熟考を重ね、この結論に至ったのだ。失敗などありえん」
 ナラクは自信たっぷりに言う。
「そもそも、このままでいても行く先はたかが知れている。これは大いなる賭けだ」
 ナラクは声高らかに笑った。

 祭壇では、シノビが小さな声でうわごとをつぶやいている。
「こ………う…………」
 オロチはその声に反応するように、ゆっくりと首を動かしていた。
 明かりの消えた、他に誰もいない祭壇で。



 研究所での三日目の朝。
 機体はキャリアごと地下室から専用のゲートを使って運び出され、牽引用のトラックにつながれた。
 厚木から来た人達は疲れるそぶりも見せずに活発に動き、昼前には出発の準備が整う。
 三台のトラックの内訳は、キャリア牽引用の大型車が一台、物資輸送用のビニール屋根付きが一台、そして機体への指令とデータ採集が目的の通信車両が一台というものだった。
 神里は真っ黒な衣装に身を包み、そそくさと通信車両の中に入っていった。それは鉄板に覆われていて、陽を通さない車両でもある。
「あの人は太陽が嫌いなんですか?」
 その様子を見ていたコウが谷古田に聞く。
「あいつは白子だから、紫外線が大敵なんだ。付き合いが悪いのは大目に見てやれ」
 谷古田はコウの肩を叩いた。
「それよりも、機体は動けるようにしているか?」
「ええ。炉を止めると再起動に時間がかかってしまうとかで、アイドリング状態にしています」
「ここからしばらく、訓練を兼ねて動かしてみろ。早いとこ使いこなせるようになってもらわないと」
「あれで移動するんですか?」
「そうだ。神里にもそう伝えてある」
 そう言っている間にも、機体はリフトアップされて直立姿勢になった。
 急に言われたのでコウは戸惑ったが、谷古田の言う通り、機体に乗り込む。
 三回目の操縦は随分と慣れてきて、接続時の衝撃もほとんどなかった。
 ゴーグルの視界が切り替わり、ピクシーからの視点になる。
「とりあえず台から降りてみろ」
 一日目は足すら満足に動かせなかったが、今日は割とよく動いた。まだ実際の感覚とズレを感じるが、バランスを崩す程ではない。難なく台から機体を下ろした。

「あれにコウが乗ってるんだ…」
 ゆっくりと歩き始める機体を、未羽は目を丸くして見上げた。
 サラマもその横に立ち、同じように見上げる。
「おーい」
 未羽は呼びかけて大きく手を振った。
 コウがそれに気付き、機体を未羽の方へ向けて右手をかざす。

「凄いなぁ。ちゃんと動くんだ」
「あれがああやって動くまで、どんなに大変だったか、あんたは知らないだろうけど…」
 サラマは墓のある裏庭を一瞥した。

「ゆっくり歩いてみろ」
 谷古田がマイクに向かって言った。
 コウは言われた通りに道の上を歩き始める。関節が動く度に、モーターの駆動音が鳴った。
「ここまででいいですか?」
 50メートルほど歩いてこちらに向きを変え、コウはマイクを通して言った。
「よし、戻ってこい」
 谷古田の声が響いた。
 そこに隊員の一人が駆け寄る。
「隊長、出発の準備は終わりました」
「そうか。それじゃ行くか」
 谷古田はマイクを口に近づける。
「残った奴らはバスに乗ってくれ。出発するぞー」
 マイクから声が響く。
 それと同時に、一斉に車のエンジンがかかった。
「みんな用意できた?」
 そう言ってサラマは研究所を見た。
「はーい」
 アヤは入り口で靴を履きながら言い、未羽はそれを待ちながら言う。
 それから三人はバスに乗り込む。
「まるで遠足みたいじゃん」
 アヤははしゃいでいた。
「だけど、これからは大変だよ」
 と、サラマは言う。
「東京の事ならもう十分分かってるし、別に驚いたりしないよ」
 アヤは笑う。
「そうかい。あんたら強いんだね」
 サラマも笑った。バスのドアが閉まる。
 車の列はゆっくりと進み始めた。

 浄光の社では、「大祈祷」の儀式が行われていた。
 社の完成を祝う一連の祭りのクライマックスとして用意されたイベントである。
 境内は信者で埋め尽くされ、その中心にオロチがいた。
 オロチのそばにはシノビが座り、その横に灰色の装束を着たナラクが座る。
 その周りを白装束を身につけた側近の信者達が幾重にも取り囲み、一番外側には普段着をした一般の信者達と野次馬の観客達がいた。
 オロチの周囲を取り囲むように護摩が幾つも焚かれている。
 誰一人声を出す事もなく、太鼓と篳篥と笙の音色が厳かに響き渡っていた。
 ナラクはちらりとシノビの様子を見た。
 彼女の視線はオロチの目に向かっている。オロチは八つの頭部の目を鈍く赤色に光らせ、微動だにしなかった。
 ずっと彼女と共にいるナラクにも、彼女が何を感じているのか分からなくなる時がある。彼女がオロチと見つめ合っている時などがそうだ。
 その時のオロチは、まるで彼女を慕うかのように彼女と共に動いた。それ以外の時は眠っているだけなのに。
 彼女とオロチの間には、他の者には分からない意思のやり取りがあるのだろうか。ナラクにはそれは知りようも無い事だった。
『私は、利用できるものは利用するだけだ。私の正しさを知らしめる為に…』
 祈祷の文言を神官達が語り続け、儀式は進行していく。
 昼を過ぎて空は灰色に曇り始めていた。

 コウは一行の車列の後を付いていく。車列はゆっくりと鳴沢村に近付いていた。
 ピクシーの歩く速度は時速20キロメートル。ゴーグルから見える視界の片隅にその数字が表示されている。
 機体から感じる気配はだんだんと強まっているように、彼には思えた。
 身に覚えが無いのに心臓が高鳴る。
「谷古田さん、何かおかしいです」
 コウは通信マイクに話しかける。
「どうしたんだ?」
「胸騒ぎが…」
「神里、そっちはどうだ」
 通信車両の中にいる神里と話しをする。
「確かに、脈拍が上がっているし、脳波にも異常がある」
 神里は言った。
「原因は?」
「私にも分からない。ただ、最初の接続の時と似た状態になりつつある」
「コウ、辛いなら降りてもいいぞ。…幸い、鳴沢には道明寺がある。ここで休んでも良かろう」
「…もう少しやります」

ドォン………

 突然、耳に太鼓の音が聞こえてくる。彼は周囲を見回す。が、人の気配すらない。
「谷古田さん、今、何か聞こえませんでした?」
 コウは谷古田に聞いた。
「何も聞こえんが…。どうした?」
「いえ。何でもないです」
 彼は平静を装った。

 大祈祷はいよいよ目覚めの儀式が始まる。
 黒いゴム手袋をはめた白装束の信者達が、一人ずつフジツボを手に持ち、オロチの周りに並べていった。運ばれていく最中、フジツボはかすかに放電していた。
 全て並び終えた後にナラクが立ち上がり、手に持った数珠を振り上げ、叫んだ。

「めざめよ オロチ
 浄めよ 光」
 力強い太鼓の音。
「導きたまえ!」
 彼は叫んだ。

 鐘の音が鳴り、群集は復唱する。

「めざめよ オロチ
 浄めよ 光」

 そしてまた鐘の音。復唱。鐘。復唱……
 文言が繰り返されるにしたがって信者たちの声は地鳴りのように大きくなり、鐘を叩くペースは徐々に速くなっていった。
 その声に刺激されるかのように、フジツボ達はさらに青白い火花を飛ばし始める。
 シノビは表情一つ変えず、オロチをじっと見ていた。
 空はますます暗くなって、やがて雷の音が響き始める。
 突然、その中の一匹が、畳み込まれていた無数の足を出し、オロチのところへと這い始めた。
 そして、オロチの胴体にある窪みにしがみつき、チリチリと放電を始める。
 シノビの体がぴくり、と弾ける。
 それがきっかけになったのか、他のフジツボ達も動き出し、オロチの体に群がり始めた。
 ナラクは壇上で激しく体を躍らせながら、その様子を一瞥すると、口元に笑みを浮かべる。
 フジツボ達はオロチの体に飛びつき、オロチの姿を覆い隠してしまう。
 それから一斉に放電が始まった。
 その瞬間、シノビはその場に崩れ落ちた。
 矢継ぎ早に湧き上がる復唱の渦によって信者達はトランス状態になり、幾人かその場に倒れこむ者もいた。そのような中で、シノビの様子に気付くものは誰一人としていない。

「助けて…もう止められない」
 シノビの呟きはかき消され、彼女の目から涙が落ちる。
 オロチの目が赤く輝いた。

 オオオオオォォォォォ………

 咆哮が鳴り響き、オロチは全身を振るわせる。
 ゴキゴキと分厚い金属が曲がるような音と共に、巨大な体が脈動を始めた。
 びっしりと張り付いていたフジツボを振り落として、八つの首が大きくもたげられる。
「ヒャハ…オ……オロチ様の目覚めだ!」
 ナラクは汗だくの顔を歪めて、奇声を発した。

『助けて…コウ……』

 コウの頭に再び声がした。またあの声だ。

『彼を止めて…』

「誰なんだ!?」
 コウはコクピットの中で叫ぶ。
『お願い…』
「おい!誰と話してるんだ」
 谷古田が怒鳴った。
 コウは周囲を見回す。
その時、何かが叫ぶ音が聞こえた。サイレンのような、巨大な筒の中で空気が震えるような、身の毛もよだつような音が。それは明らかに人のものではなかった。
「谷古田さん、今の音」
「今のは俺にも聞こえたぞ」
 コウは南東の方角を向く。赤い光の筋が天に向かって放たれるのが見えた。
「南東に何かがいます!」
 コウはキーワードを操作パネルに入力する。ファイルに書いてあった飛翔モードへの切り替えを試みた。
「あそこから、誰かが僕を呼んでる」
 機体が何故ピクシーという愛称で呼ばれるのかは、背中に飛翔用のブースターを装着しているからである。おそらくトンボから得たパーツだと思われた。
 飛翔モードに入ると、ピクシーは体をかがめ、背中のユニットを展開する。大きな翼が横に広がった。
 エンジンに火が入り、機体の回りには陽炎が揺らめき始める。
「コウ、どこへ行くつもりだ!」
 谷古田は車から身を乗り出して叫んだ。
「神里、止めろ」
「無茶言うな。そんな事が出来るか」
 通信車からはつれない答えが返ってくる。
 背中のエンジンが火を噴き、ピクシーの体は浮き上がった。
 轟音が周囲にこだまする。
「すみません。行ってきます!」
 谷古田に向けてそう言い残し、コウは飛び立っていった。

「まったく、急にどうしちまったんだ…」
 南東へ飛んでいく機体を見上げながら、彼が異常を訴えていた時に降ろせば良かったと、谷古田は舌打ちをした。
 仕方なく彼は車列の動きを止め、神里のいる通信車両に入り込む。
 神里は車内でモニターを眺めながら腕を組んでいた。
「奴に何があったんだ?」
 谷古田は尋ねる。
「これを見てみろ。ピクシーからの映像だ」
 モニターには上空から見下ろした鳴沢周辺の映像が映し出されていた。その中央には白木で出来た浄光の社と境内が見える。
 境内の中には群集と、何か大きなものが動いていた。
「これは…」
 境内の方から発せられた赤い発光体が手前をかすめ、モニターにノイズが走る。
「ヒドラ、だな。それもかなりでかい」
 神里はキーを叩き、ヒドラと思わしき物体を囲んで拡大する。八つの首が見えた。
「こんな奴がいたのか…」
 谷古田は目を見開いて言った。
 これまで見たヒドラは、大きいのでも五つ首ぐらいがせいぜいで、八つ首は彼も見るのは初めてだ。
「これは、もう戦うしかないな…あちらに気付かれている」
 神里はうめくように言う。ヒドラの行動パターンによれば、気付かれてしまうと逃げるのはまず不可能だった。遠くまで逃げても、周囲の襲来甲を使ってこちらの居場所を嗅ぎ出してしまうからだ。
「まだろくに操縦も出来ないというのに…」
 神里はため息をついた。
「こうなりゃ、支援するしかないだろ」
 谷古田はマイクのついたヘッドフォンをかぶる。

 空に上がった機体は、バランスを取るのが難しかった。マニュアルでの手順は覚えていたが、感覚がついていかない。
 コウは景色が激しく揺れる中で、地上に向かって目を凝らす。接続が進んでいるのか、目を凝らした場所が自動的にズームアップされていく。
 先程からこちらに向けて攻撃してくる物の姿を捉える。八つの首を持ったヒドラだ。
「勝てるのか…」
 コウの額に汗が流れた。
 一瞬、少女の姿が目に浮かぶ。
「あそこに、声の主がいるのか」
 コウはさらに目を凝らした。それに感応して、映像の景色がどんどん拡大されていく。
 浄光の境内の中、ヒドラから逃げ惑う人々が見える。ヒドラは八つの首を振り回し、あらゆる方向に熱線を放ち始めた。社はたちまち炎に包まれる。
 ヒドラの足元に、人が倒れているのが見える。
「あれは…」
 その姿を確認するや、コウの体は自然と動いていた。

 雨が降り始めた。
 機体は境内の中に着陸する。バランスを崩し、機体は両手をついて四つんばいになった。
 逃げ惑っていた信者達は殆ど外に避難している。社は燃え上がり、白い煙を吐いていた。しかし今はそこを注視する時ではない。コウは機体を立ち上がらせた。
 目の前に、巨大なヒドラがいる。雨の雫が熱を持った体に当たり、音を立てて蒸発している。
 襲来甲は水に濡れると動きが鈍くなる。コウは経験でそれを知っていた。しかし彼の乗っている機体もそれは同じ事だ。
「どうしたらいい…」
 そこに谷古田の通信が入る。
「コウ、絶縁ナイフを使え。呼び出しプログラムは必要ない」
「どこにあるんですか」
「腰の鞘にささっている」
 こうの視界の端に機体のシルエットが浮かび、ナイフの位置が赤く点滅する。向かって左側の背中に横向きに刺さっているのが確認できた。
「できるな?」
「やってみます」
 コウは右手を後ろに回し、ナイフの柄を掴んで、一気に引き抜いた。
 刃渡り2メートル程の黒光りする刀身が手の中にあった。
 ヒドラはこちらに向けて熱線を放つ。機体のゴーグルはハンターをしていた時の物と同じように、対象物の動きを色で教えてくれる。彼は難なく避けた。
 熱線を放った後、ヒドラの動きに隙が生まれた。
『いける…』
 コウはそう直感し、ヒドラの懐に向かって飛び込んだ。

 重い金属の塊同士がぶつかり合う音。
 ピクシーが握っていたナイフは、バターの塊を切るように深々とヒドラの体に突き刺さる。
 コウは両手のレバーに力を込め、そのナイフを上に持ち上げる。ナイフが傷口を押し広げるたび、ヒドラの体から火花が飛び散る。
 コウは押し広げられた傷口に手を突っ込み、力任せに外殻をめくった。ギキギキと金属が擦れ合う音を発しながら、ヒドラの装甲が剥がされていく。
 コウの握るレバーに、その手ごたえが返ってきた。数十分の一程度のフィードバックだが、それでも重い。
「このぉ!」
 コウは歯を食いしばり、レバーを動かす。ピクシーの全身が軋むように唸った。
 それと同時にヒドラの外殻は一気にはじけ飛び、宙を舞って境内の塀にめりこんだ。
 ヒドラは悶え苦しむかのように八つの首を激しく振り回し、その一つがコウの機体に激突する。彼は弾き飛ばされた。
 強い衝撃で彼の体はコクピットに叩きつけられる。いくらか周囲のクッションで緩衝されたとはいえ、衝突の力は一瞬にしろ彼から視力を奪う程のものだった。
 横倒しになった機体の中で、コウは頭を抑えた。
「うう…」
 ヒドラの剥がされた装甲の内側には、黒い骨格が露出していた。ヒドラが動くたびに、その骨格から体液が噴出している。
 コウは機体を立ち上がらせ、ヒドラの首に向かって拳を放った。首の一つはひしゃげて動かなくなった。

 繰り返される衝撃で、倒れていたシノビは目を覚ます。
 夕立の激しい雨の中、眼前にはオロチと白い巨人の戦いが繰り広げられている。彼女の全身は、2体の戦闘によってはじかれた泥でずぶぬれになり、白装束は茶色に変色していた。 
「ぅあ……」
 シノビは口を開いて、言葉にならない声を発する。
「コウ…めざ…めた……」
 彼女は2体の戦いを眺めながら、そこに突っ立っていた。
「わた…し…止める…から……」

「心臓は狙うな。至近距離で爆発したらお前も助からんぞ」
 谷古田の声がした。
 ヒドラの心臓は核融合炉だ。谷古田の言う通り、そんなものをここで壊したら爆発で周囲のものを巻き込むし、コウも無事でいられる保証はない。
 戦いながら、コウは攻めあぐねていた。
「だったら、どこを狙えばいいんだ…」
 ヒドラは格闘戦に対応した襲来甲ではないので、ピクシーの攻撃にも対処できないようだった。胴体についた無数のレーザーは周囲に乱射されるが、人間向けの武器なのでコウの機体に当たってもびくともしない。
 コウは機体を立て直しながら、神里に連絡を取る。
「教えてください。ヒドラの弱点を」
 すかさず神里から通信が入る。
「ヒドラの動力伝達路を切断しろ。それしか奴を安全に止める方法はない」
「解剖図とか無いんですか?」
「そんなものはない。自分で確かめながらやれ」
 神里の返事はつれなかった。
「仕方ないな…」
 コウは再びナイフを手に持って身構える。
 ヒドラは剥がされた装甲の内側が水で濡れ、あちこちで放電を起こしていた。
 大きな火花が出るたびに、生き残った首が痙攣を起こしたように動いた。
「首を落とさなきゃ、胴体の伝達路までたどり着けない…」
 その様子を眺めつつ、コウは呟く。残った首はあと4つ。
「こちらもエネルギーに気をつけないと…」
 視界の端に見える動力グラフは少しずつ低下していた。激しく動く事と雨に濡れる事で、かなりのロスがあるようだった。
 ふと、首の一つから高い熱エネルギーを感知する。
 コウはとっさにひらめき、その懐に飛び込んだ。
 熱線を発しようとする首にしがみつき、頭部を持って内側に曲げる。
 熱線が発射され、それは首の根元に向かって放たれた。首は根元から溶けると同時の爆発する。2本の首が根元から崩れ落ちた。
「あと二つ」
 コウは持っていた首にナイフを突き立て、横一線に振り抜いた。
 首の先端が切断され、地面に落下する。
「最後!」
 ナイフを最後の首の根元に突き立てる。切り口から激しい火花と煙が発生する。
 すかさずヒドラの胴体に乗り上げて、黒い骨格が見えている傷口にナイフをめり込ませる。
 無数の配線と金属製の人口筋肉でびっしりと埋め尽くされた中に手を入れ、一気に中のものを引き抜いた。
「動力炉はどこだ…?」
 コウはヒドラの内部を破壊しながら、動力炉の位置を探した。

 シノビは突っ立ったまま、その様子を眺めていた。
「だ…め……」
 彼女はうわごとのようにつぶやく。
 
 骨格の内側に、コウはヒドラの動力炉を見つけた。
 その時、背後から熱反応を知らせるシグナルが表示された。
 コウの真後ろにヒドラの頭部があった。一つ仕留めそこなったらしい。
「くそっ!」
 コウはナイフを引き抜き、ヒドラの頭部と向かい合う。ヒドラの頭部が光った。

『やめて!』
 脳内に少女の叫び声が響く。

 それと同時に、コウの目の前で熱線を放とうとしていたヒドラの頭部が突然痙攣を始め、そして空気が抜けるように倒れる。
 コウには何が起こったのか良く分からなかった。
 ともかくヒドラは突然停止してしまった。
「何が…起こったんだ……?」
 呆然と立ち尽くすコウの目の前に、一人の少女がいた。
「あ…」
 コウはその少女の映像を拡大する。
 彼女はこちらを見てうっすらと笑っていた。

『やっと、会えたね…』

「君は……」
 その顔を見てコウは驚き、言葉が漏れた。