お返し
:冬風
小島香世は16才の女子高生。
父親の仕事の都合により引っ越して来た地方の高校へ通っている。
彼女の地方での新居となった家は、最近になって開発が進められている地区にあり、一面の田畑や空き地の所々にまるで茸の如く所々にまとまる形で新築の家が立ち並びつつあった。
各地の住宅地から駅までは整備された片側1車線の道路が通じているので何とも無かったが、彼女は電車通学でなかったので荒天の時以外はその道とは通学する上での縁は無かった。
香世は毎日、自宅から自転車にて田畑の中をつき抜ける整備された農道を、走ること40分余りを掛けて通学していた。
本当なら電車で通った方が25分程度で行け、駅は自宅と学校の至近にあり何よりも安全で好ましいのだが、彼女の引っ越してくる直前にその地域に新幹線が開通。それにより平行在来線としてそれまでJRであった在来線が地元出資の第3セクターに移管された事で本数は増えたものの、運賃は以前の2倍以上に値上げされ定期運賃にも見事に跳ね返って来てしまった。
その為とても負担出来るものではないと利用を断念し、この様にして自転車で通う羽目になってしまったのである。
"全く・・・とんだ迷惑だわ・・・。"
と彼女は東京住まいの頃には考えられない様な労力を、日々使わせる元凶となった新幹線の高架橋をくぐる度に舌打ちしているのだった。
新幹線の高架橋よりも高校寄りへ行った付近で道は牧場を横切る。
それも敷地のど真ん中を横切るので迷惑にならない様にとどうも気を使ってしまうのだった。
そして、彼女は大の動物嫌いで見るのはまだ良しとしてもあの動物特有の匂いが堪らなく好きではなかった。特に家畜の発する匂いほど耐えられる物はなく、彼女は日々通過する度にここだけはどれだけ疲れていようとも速度を上げ息を止めて通過すると言う徹底振りであり、新幹線以上にこの牧場の事を嫌っていたのだ。
そんなある日の事何時もの様に牧場へと差し掛かった香世は、いつも通りに漕ぐ速度を上げるとそのまま通過して行こうとした。
ところが昼に降った夕立の影響で出来ていた巨大な水溜りの存在に、暗がりであった為気が付くことが出来ず知らずに突入。急に車輪から感じる感覚が硬いものから抵抗のある流体へ変わった事に気を取られてバランスを失い、そのまま思いっきり泥水の中へと自転車事投げ出されて彼女はすっかり泥塗れとなってしまった。
「あぁ〜何よ!もう・・・最悪、本当最悪だわ・・・。」
何とか立ち上がった香世は、体と服に付着した泥を暗がりの中で目に見えるだけ手で取り除くと、前籠から外へ飛び出し締めが甘かった事で中身の一部を散乱させた鞄を手に取り、立ち上げた自転車の元の前籠に載せてまだ泥水の中に散乱している中身を拾い集めて鞄に詰め込む。
「どうしてこんな事しなきゃならないのよ・・・。本当、最悪!牧場の馬鹿、馬鹿!こんな所にあるのが悪いのよっ!」
何とか見た所全てを拾い集めた彼女は、泥水の中に沈んでいた泥の塊の様なものを鷲掴みにすると思いっきり、全ての元凶であると彼女の思い込んでいる牧場の敷地の中へ投げ込んだ。
そして半ベソをかきながら自転車を押して、残りの道程を自転車のライトのみを頼りに約一時間掛けて歩いて帰宅して行った。
水溜りの中へと盛大へ転んだ翌日、気分が悪くて家にて寝ていた彼女は濡れてしまった教科書等を乾かそうと、ベランダに布いた新聞紙の上に並べている際にふとお気に入りの筆箱がなくなっている事に気が付いた。
学校に置いて来た事は考えられない、本当はそうであって欲しいのだが学校帰りにふと気になった彼女は、校門を出た所でカバンの中を確認し、その際に筆箱が確かに入っている事を確認した記憶があったからである。
「と言う事は・・・あの水溜りの中って事?・・・最悪・・・昨日と言い、今日と言い本当ロクな事が無いわ・・・今取りに行かないと・・・大切な物だから。」
彼女はまた行かなくてはならないのかと、すっかり憔悴したと言う顔を見せる一方、どこか大変な事をしてしまったと言う焦りと不安を感じさせていた。
そして、急いで着替えると籠はひしゃげ、泥の痕跡の残る自転車に乗り、昨日は泣いて歩いてきた道を今度は焦りを感じながら飛ばして行った。
あの現場に着くと水溜りはすっかり小さくなって、昨日の道幅一杯に広がっていたのを海とするなら今目の前にあるのは池と言える程度の大きさである。
一晩でのこの大きな変動に彼女は驚いた反面、早速鼻を抓みながら雨上がりで普段よりも濃い家畜の臭いの中、どうにかして一分一秒でも早くその筆箱を見つけ出し立ち去る事だけを考えていた。
だが一向にそれは見つからない。縮小した水溜りの中にも水が引いた路面にも路肩の草叢の中にも無かった。
となると唯一考えられるのは路肩の柵の向こう、つまりは牧場の敷地の中となる。しばし眉間にしわを寄せて顔をしかませていた香世は覚悟を決めたのか、高いけれどもやや広めに開けられている鉄条の間へ服を引っ掛けないように慎重に入り込むと、牧草の生い茂る馬場の中を捜し始める。
この事で牧場の経営者に見つかり叱責されはしないかとも考えていたが、幸いにして丁度その日は朝から家族総出で出掛けていた為それは無用な心積もりだった。
そして捜し始めて10分ほどで彼女はようやく捜し求めていた筆箱を、すっかり泥塗れとなった無残な姿になっていたそれを20メートル中へ入った草叢の中で見つけたのであった。
"良かった・・・見つかって、中身も全部入っているし・・・さぁ早くこんな所から出てしまわな・・・?何、この音?"
心を撫で下ろしたのも束の間、不意に耳に響いてきた地面を規則正しく蹴る音に気がついた香世が背後を振り向くと、何とそこにはもう目前にまで1頭の胴体に泥の跡が付いた馬が、猛烈な勢いで自分目掛けて走ってくるではないか。
瞬時に顔色を変え冷や汗を流しはじめた香世が、慌てて一歩二歩と走り始めたのも何の助けにはならずそのまま馬に突っ込まれた彼女は、体を衝撃で宙に上げられると共に背中を中心に激痛を感じた。
余りの事に混乱する中で、香世はどこか死すら覚悟していたと言っても過言ではない。とにかく最初はそのまま宙高く放り投げられるのだと思い込んでいたのだが、不思議な事に何時まで経っても体は宙を舞いはしない。それどころか激痛が痛みへと引き、その内に何も感じなくなった彼女はふと、その体の中へと何かが入り込んでくる様な感触を得た。
"何?何なのよ!?体が、どうしてこんな格好をして動かないの!?それに何だか・・・嫌、やめて・・・変、変になっちゃう・・・!?"
再び香世は混乱の坩堝に突き落とされていた。
珠の様な汗を行く筋も流しながら、前方を向いている彼女はただ異様な感覚と体勢の他に、何もその時点では分からなかったが、外から見た人は皆一様に驚き腰を抜かした事だろう。空中に斜めになって静止している彼女の体に背後から馬がのめり込んでいるのだから。だが誰も見ておらず、そして通り掛らなかったのは真に幸運な事であった。
香世の体に衝突し、のめり込みつつある馬の体は後足を曲げて嘶く時の様な姿勢を取り、その顔や首と行った部分は半ば彼女の胴体や頭に沈み込んでいた。
既に顕著な変化の見えるのは腰と腹の辺り、腹は押し出される様に前へ突き出て、その下部ではきれいに背後へとカーブを描いて流れ、大腿部の足は前へと浮き上がった様になり明らかに大腿骨の形が変わっているのが見える。
そして始まる本格的な変化、まずは人のままで大腿部に目立った変化の見られた両足が先端は蹄化し、蹄と皮膚との接点から鹿毛ののめり込んで来た馬の獣毛が足を覆っていく。曲線を描きつつあった下腹部にも密着した胴体から獣毛に侵食され、馬特有の盛り上がりを見せた走るのに適した形に腹筋は変形していく。次には左手も変化し、矢張り両足と同じく馬の足化し始める。
続くは顔、のめり込んで来た馬の顔そのままに顔が伸びて変形し獣毛に覆われて、その黒い瞳は馬の瞳と同じ位置までずれるとどこか赤を湛えた色へと変色していく。首が胴体との付け根の付近から獣毛に覆われて、そして骨を軋ませながら伸びて、黒かった髪の毛は次第に色褪せて今や鹿毛よりもやや明るい色にまで変化した。
顔の変化が完了する一方で、馬の胴体はますます滑る様に香世の腹部へと入り込み、いまやあのスリムな人の体は膨れ上がって湾曲し伸び始めていく。
首で上から、馬の胴で下からと上下で押さえ込まれる形で急速に消えて行くその人の体、ふと気にすると立派な馬の足へと変化した元は人の足であった物は、つい先程までその体を支えバランスを取っていた馬の後足と融合している。そして腕変じた前足が地面に蹄を付き、胴体も臍やや上の付近から下は馬の胴と一体化しそれより上は首へと変じる。そしてその腕の変じた前足は静かに位置を下へと動かす。
首に生える鬣は黒ではなく、明るい鹿毛であるのがアクセントであり尻尾も同じだった。
赤い瞳と明るい鹿毛の鬣と尻尾、他の馬とはすっかり様相を異にする馬の中で、外見と同じく馬の本能や記憶と融合していた彼女の意識がようやく落ち着いて目覚めた。だがそれでも当初は戸惑いの色を隠せないでいた。
しかし数歩歩いて馬としての感覚を得る内に彼女はどうした事か戸惑いをなくして、それまで馬に抱いていた嫌悪感の様な物の一切を投げ捨てたのだ。
変化の途中でようやく事の重大さを認識した彼女の頭の中で混乱の中、ある聞き慣れない言葉が響くのを彼女は確かに聞いていた。曰く自分は馬に好かれていたのだと、だがそれを分かってもらえない馬は耐えていたが、昨夜泥をいきなり投げつけられた事で裏切られたとショックを受けたのだと言う事をその言葉は告げた。その事に対してかつての香世であればそうは思わなかっただろうが、今の香世にとっては何だかそれをしみじみと感じる事が出来た。
"ごめんね・・・しばらく一緒にいて上げるから。"
そう意識した時、同居している馬の意識によって馬は嘶くと、馬場を勢い良く一周して走ると草をしばし食んでは片隅の厩舎の中へと帰って行った。その足取りからは迷いや戸惑いそして驚き等の一切の雑念は、微塵にもとても窺えなかった。
完