東街のねずみたち

     一、作戦


「おいらは怖いよ・・・。こんな事したって、あいつを怒らせるだけだよ」

三日月が、ビルの谷間へと落ちていく夜。
 大きな猫が、通りをジグザグに歩きながら、道路脇に並べられたブリキのごみ箱に次々と顔を突っ込んでいく。 
冷ややかな水銀灯の他に灯された明かりは一つもなく、眠っている街には一台の車もなかった。その通りに、大きな猫のごみ箱をひっくり返す音だけが、単調に何度も響きわたっていった。
やがて、痩せた野良犬と、一つのゴミ箱をめぐって、にらみ合いになった。
 その猫は身じろぎ一つせず、相手をにらめつけながら悠然と足を踏み出す。
 その歩調が速くなったかと思うと、後ずさりしていた犬はおびえて鳴きながら、闇の中へと姿を消した。
そして、何事もなかったかのように、猫はゴミ箱へと引き返した。

「ノリス、お前おりるか?」
 パイルはノリスに聞いた。
「そこまで言ってねえよ」
「いまさら俺のやる事にけちつけるんなら、いいんだぜ」
「・・・・・」
「静かに。来るぞ・・・」
 ライバーが二匹を制止した。
 彼らが潜むごみ箱の、ブリキの壁を通して聞こえてくる不規則なリズムの足音は、だんだんと大きくなり、心臓が胸板の裏で激しく暴れ、パチンコを握る手は、じっとり熱くなる。
「いいな。右側の目を狙うんだ・・・・」

 水銀灯の、冷たい灯りに青ざめた野良猫は、食欲に身を任せて、酔っ払いの様に心もとない足取りで、一つ、また一つと、通りのごみ箱をあさっていった。
 季節はずれの冷たい風が、埃をまきあげ、彼が散らかして通り過ぎた道を一層掻き回し、その音は、彼の半分ただれた耳の中でいつまでも唸り続ける。
 ひっそりと、どこかで何かが目を光らせている。その大猫にはもう、それを感じる事は出来なかった。

「いまだっ!」
 怯え半分の声が叫んだ。
 彼らの潜むごみ箱に、青白い水銀灯の光がすっと差し込み、巨大な黒い影がぬっと入り込んできたのと同時に、彼らはその影を目がけてむちゃくちゃに弾をはじき飛ばす。
 たちまち、ごみ箱の中は強い刺激の煙で充満し、ノリス達の鼻はひりひりと痛みだす。それでも彼らは、球を打つのをやめない。
 やがて、心臓を握り潰すような叫びを上げて、巨大な影はもんどりをうって倒れた。
 ノリスは、小刻みに震える足を片手で押さえ、全身の毛が逆立つ嫌な感覚を押え込もうとふんばった。
 目を潰された大猫はすぐに起き上がり、ごみ箱を押し倒し、あげく前足をめくらめっぽうに振り回した。
 ブリキの蓋が彼の平手打ちで弾き飛ばされ、猛烈な勢いで壁に当たってひしゃげてしまった。
 ごみ箱の中身は辺りにぶちまけられて、その拍子に何者かが走り去って行くのをその大猫は見逃してしまった。
 悔し紛れに彼はしばらく、そのごみ箱に八つ当たりした。
その家の主人が、無残な光景を目にして嘆くのは、それよりもっと後の事だ。

ねずみたちの一行は、建物の隙間をジグザグに駆け抜けていった。
「うまくいった!」
 ライバーは息を切らせながら、嬉しそうに言った。
「俺の計画に、間違いはなかったな。さすがに奴も、胡椒と唐辛子入りの特製催涙弾をくらって、少しは懲りただろう」
 パイルは得意げににやりと笑う。
「でもパイルのやる事はいちいち危なっかしい。これじゃ命がいくつあっても足りねえや」
 ノリスは冷やごとを言った。
「でも、うまくいったじゃんか」
 ライバーは当然のように返す。
「いつまでもこう、うまくはいかないさ」
 ノリスは、そんな独り言を噛み殺した。

 次の日は、朝からパイルの話題で持ちきりだ。
 ねぐらに住み着いている者逹は皆、パイルの勇敢さをたたえた。何しろ、あの大猫フィッグにあれだけ手痛い報復をしたのは、彼が初めてだからだ。
 彼らも皆、マレイの一家がフィッグに襲われたことを、そしてそれに対してねぐらの誰もが何もせずに黙っていたことに、内心腹を立てていたのだろう。自分のことは棚に上げて。
 パイルはパイルで、自分の事がささやかれる度に機嫌を良くして、自然とおしゃべりになっていくのだった。
 彼の自慢話にはもう尾ひれがつきかけていたし、彼は自分の事ばかりしか話そうとしなかった。ノリスにはそれが不満でたまらなかった。あの作戦を考えたのはパイルだけれど、勇敢に戦ったのは彼だけではないからだ。
 その日パイルは、ライバーや彼の女友達のリオなどと共に、いつものように踊りを踊ったり、危険ないたずらをしにどこかへ行ってしまった。ノリスは、自分が居候しているローニャおばさんの家にこもって、独り不満をぶちまけていた。でもその事も、昼食を食べ終わると忘れてしまったけれど。
 そして、気分の良くなった彼は、小さなサリィと一緒にねぐらの界隈をぶらついて回った。サリィははしゃぎながら、ちょこちょこと彼の後ろをついてきた。
 ノリスは他のねずみ達と比べてちびだったが、それでもサリィの倍は大きい。サリィにとって、大きなノリスはこの上なく頼もしく感じられるようで、いつもより大胆に振舞う。ノリスは少し恥ずかしそうに鼻をこすった。

 彼らねずみ達の住んでいる『ねぐら』と言うのは、人々からその存在さえ忘れられた古い下水路のほんの小さな区画である。ひび割れた古いアスファルト舗装の道路の下にある事は、東街のねずみたちだけの秘密だった。

「ねー、ノリス兄ちゃん、ランド=スタークって誰?」
 ちいさいサリィは歩きながら、ノリスを見上げて尋ねてきた。
 ノリスはサリィの生まれる前からローニャおばさんとノルテおじさんの所に居候していたので、彼女は彼を兄のように思っていた。みなしごだった彼も、そう呼ばれるのに悪い気はしなかった。
「あれ、どこからそんな事を聞いたんだ?」
 ノリスはサリィに言った。
「みんな言ってるよー。パイルは、ランド=スタークの生まれ変わりだってさー」
 サリィの言葉に、ノリスは少し眉をひそめた。
 そして、頭をぽりぽりとかいた。
「あいつが?」
 少々、馬鹿にしたような顔をする。
「・・・・まさか、冗談きついぜ」
 ノリスはそっぽを向いて、皮肉っぽく少し笑った。
「ねー、だから、ランド=スタークって誰なの?」
 サリィは眉をしかめて叫んだ。
 ノリスは足を止めて、瓦礫の上に腰掛けた。そして、うつむき加減に目を閉じ、うんざりしたふうに答えた。
「ああ、おいらも良く知らないよ。とにかく、おいらの聞いたとこによれば、ものすごい昔にこの街をフィッグの手から守ったえらいねずみなんだってことさ。首に黄色いスカーフを巻いて、フィッグとも互角に渡り合ったって言うぜ」
 彼は上を見上げた。
「えらいって、どれくらい?」
 彼女はきらきらしたおおきな目をより一層大きく見開いて、鼻をひくひくさせながら返事を待っていた。
「さあね、この街で一番大きいビルよりもずーっと」
 ノリスは天井から漏れてくる光の模様を眺めている。
「ずーっ、と?」
 サリィは口をあんぐりさせて間延びした声をだした。
「そうそう」
 サリィの様子が余りにも奇妙だったので、ノリスは思わず笑って相づちを打った。そして、くりくりした瞳で彼をじっと見つめるサリィの頭をバスケットボールのようにたたくと、訳が分かっていない彼女の顔が弾む。
 ノリスが突然笑い出したので、彼女は少し機嫌を損ねてしまったようだ。ふくれっ面をして、言った。
「もー、そんなに、笑わないでよお!」
「アハハハ・・・、ごめんごめん」
 ノリスはただ笑いながら受け答える。
「いーっ、だ」
 彼女はたたかれた頭に手をやって、生えはじめの前歯を見せた。

「そんなひとと、おなじくらい、えらいのね。パイルってさあ」
 サリィは、ノリスのひだりっ側に腰掛けて、足をぶらぶらさせながら、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
 ノリスは、ぼうっとこのねぐらの中に射し込んでくる白い光の筋を眺めていた。この空洞の中で、それが時間を知る唯一の手がかりである。
 上を車が走り抜ける度に、天井はぶるぶるとわななき、細かい砂が揺れながらゆっくりと降ってくる。
 まったく、退屈な景色だ。
「なあ、サリィ」
 天井を見上げながら、ノリスは聞いた。
「なあに?」
 彼女が両膝を抱えたまま向き直っても、彼は視線を合わせることさえしない。彼女も彼のまねをして天井を見上げた。
 ノリスは少しの間黙り込んだ後、独り言のように言った。
「昔はさ、この、イーストタウンのねずみ達はみんな、この上にある青い空の下で暮らしていたんだって・・・」
「ふうーん・・・・」
 ふたりとも天井を見上げたまま。
サリィは、また目をおおきくして感心した。
 ノリスは続ける。
「ところがやがて、あのフィッグが現れて、おいらたちのご先祖達は地面の下・・・・。そこに現れたのが英雄ランド=スタークさ。彼はフィッグを手なづけて、また、ご先祖達は空の下で暮らせるようになったってわけだ」
 サリィはノリスの話にすっかり興奮して、鼻をひくひくさせていた。
「・・・すごいのねえ、ランド=スタークって」
「だから、みんなはパイルがランド=スタークの再来だなんて言ってるけれど、おいらに言わせてもらえば、あのパイルが、そこまで出来る奴だとは思えないんだ」
 その言葉にサリィはゆっくりまばたきして、ノリスの顔を見つめた。
「そんなこと、ないよ」
 彼女はまるで自分自身を勇気づけるかのように、瞳を細めて、かすんだ笑みを浮かべる。
 その表情を見ていると、ノリスは少し悲しい気分になった。
 まだ小さい彼女が、もうこんなにほころびた仕草をする。
 彼女自身も解っているに違いない。パイルのやった程度で、大した変化は起きるはずがない事を。
 伝説は、いつも手の届かない高い所にあって、自分達は、いつまでもその前にひざまずかされる。そして、希望ばかりが空回りだ。
 ノリスは、いつものように冷や言を言おうとした口を閉じた。
 そんなこと、言っちゃ駄目だ・・・・。

 サリィは、ノリスの周りでがらくたを相手に独り遊びを始めた。
 ノリスは、サリィを見るふりをして、その背後の青い暗闇を見つめていた。
 サリィは、チョーク石を使って、大きなコンクリートの岩に馬の絵を描いていた。白い体の、長いたてがみをした、足の長い馬の絵を。彼女の顔は、まるでその馬の背に乗っているかのように誇らしげで、大きな目は精一杯広げられてきらきら輝いていた。
 馬の瞳は大きく開かれて、涯のない草原を駆け抜ける情熱を熱くたぎらせている。それはまさしく彼女自身であり、かつてのノリスそのものだった。
 そう、確かに彼も、そうだった。
 しかし今では、かつての自分も冷たい骸になり、追い立てられる日々の中で顧みられる事もない。
 彼はふと、考えにふけった。
 何もかもが白々とした空気の中、本当は大切な物まで捨ててしまってはいないだろうか。
 何もかも自分の弱さのせいにするのは、ただの言い訳ではないか。
「そうじゃない。世の中がおいらにそうさせるのさ・・・・」
 彼は独り、弁解する。

 地上では、自動車が相も変わらずせわしなく駆けずり回り、その地響きと共に、この空洞の一部が剥れ落ちていく。
 伝説と唯一、地続きなここも、そろそろ限界のようだ。その事実は、ノリスの様な奴にも解り過ぎるくらいだった。
 フィッグに叩き殺されるのが先か、生き埋めになるのが先か。
 彼には、これ以外の選択肢は思いつけなかった。
 彼は溜め息をついた。すっかり癖になった仕草。
 彼は重い腰を上げた。
「さあ、おうちに帰ろう」
 ノリスは何だか、くたびれてしまった。
「うん。あたし、もうおなかぺっこぺこ」
 サリィは嬉しそうにぴょんぴょん飛び跳ねて、ノリスのもとへやって来た。彼は少しだけ笑って、彼女の頭をなでてやった。彼女はまた笑って、ちいさい白い歯を見せた。
「きょうのおかずはなにかなあ。きょうもオキアミのフライだったらいいなあ・・・。でもみみずの照り焼きだったらいやだなあ。あたしみみずきらいだもん」
「だけどちゃんとみんな食べないと、ミーサ姉ちゃんに叱られるぜ」
「でもきらいなんだもん!」
 サリィは頬を風船のようにふくらませた。
「そんな事言っても駄目だよ。じゃあ、サリィは何も食べないの?」
「やーよ。おなかが減るのはもっといやなんだもん!」
 風船は、笑い声と共に破裂してしまった。

 その日の夕食はごきぶりのステーキ。
 サリィも、やっぱりミーサお姉ちゃんが怖かったので、残さずきちんと食べました。




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