東街のねずみたち

 
    二、真夜中


 街の時計台は、鐘を十二回鳴らして午前零時を知らせ、街の中がより一層静かになったように感じる。
 ノリスは何だか眠れず、独り地上に出て、誰もいない街を気兼ねなく、道の真ん中をぶらぶらと歩いていた。
 昼のにぎわいが嘘の様に、暗く静まり返った商店街のショウウィンドゥの中で、彼にとってみれば一体何に使うのかも解らない品物から、豪華な装飾品、きれいな服を着た人形達までも、何だか亡霊の様にたたずんで、その空っぽな存在を誇示している。
 見上げた闇の中には、蛍光灯が規則正しく折り重なって出来た光の塔が、何本も何本も立ちすくんでいる。そのてっぺんで、赤いライトたちがまたたき合って、ノリスの知らない言葉でささやき合っているかのようだった。
 街灯は、照らし出す物もなく、寂しく首をうなだれている・・・。
 ノリスにとってはおなじみの、締め付けられるような寂しさが、またやって来た。
彼はいつも、それが何だか、とても心地がいい。
『・・・・・中毒なのかな』
彼は苦笑した。
この寂しさに包まれると、物心ついたばかりの頃を思い出す。
彼の母親は、彼をスーパーマーケットの袋に入れたまま、姿を消したのだった。
置き去りにされたのかもしれない。それとも、店に仕掛けられた罠で、命を落としたのかもしれない。だがそんなことは、今の彼にとってはどうでもよく思える。
とにかく彼は、帰るところもなく一週間、この夜の街をさまよい続けたのだ。
そのときに見た景色、嗅いだ臭い、産毛に切りつけた風、ヘッドライトの光が、彼の魂だった。
だから、あの一週間の後、ローニャおばさんに引き取られてからも、時々ノリスはこうやって、夜の街を散策するようになった。
あの時感じた寂しさが、冷たい毛布のようにいとおしかった。
こんな事をしていても何も変わりはしないのだけれど、気休めぐらいにはなるものだ。
 ごみ籠の中から、フライドポテトの食べ残しを見つけて、些細な夜食を取る。
 野良猫フィッグは相変わらず、明日もこの街をわが物顔でのし歩くのだろう。ノリス達のねぐらは、明日にもつぶれてしまいそうだ。
 せめて、自分が帰り着くまでは、持ちこたえて欲しいと思う。

 彼はどんどん歩き続けた。
 商店街を抜け、オベリスクの広場を抜け、バイパスに入った。
 このまま、まっすぐ東へ行けば、右手に砦をいただいた丘が見えてくる。そして田園地帯へと続く道。
 ランド=スタークも、この道をつたってこの街にやって来たんだ…。
 この街のねずみを救ったあと、彼は一体どこに行ったのだろう?彼もルンサの様に、この街を出て行ったのだろうか。
 長老のハレキなら、その事を知っているかもしれない。そんなことを考えた。
 西の空には、食べ残しの弓形の、メロンの皮みたいな月が、ぼんやりとぶら下がっている。
 もうすぐ満月祭だ。
 この街に初めてねずみ達がやって来たのが満月の夜だったのを記念して、年に一度、この道の東の彼方から昇ってくる満月を、街中のねずみ達が祝う日がやってくる。オベリスクの広場に集まり、夜を踊り明かすのだ。
 その祭りの日だけは晴れてもらいたいと、ノリスは願った。
 さえない毎日のなかで、その日だけが彼らの楽しみの時だから。

 ノリスはさらに歩き続け、街の一番外れの郵便ポストの所まで来た。
 道は、さらに東へまっすぐに伸びている。街灯がなくなり、青白い水銀灯が遠くに向けて、どんどん小さく、テンポを上げながら並んで、地平線の彼方へと沈んでいる。
 この道のはるか向こうには、まだまだ彼の知らないものがある。
 ルンサは、それを求めてこの街を出て行った。勇敢にも、たったひとりで。訪れる時も去る時も、何の前ぶれもなく。
 ポストを通り過ぎた途端、彼は急に怖くなり、足を止めた。
 街角の蛍光灯から水銀灯に変わる境界線で、彼は電柱に寄りかかって座り込んだ。

 なんてさびしい道だろう!

「・・・おいらには、ルンサの様な事は出来ないや・・・・・・」
 彼は苦笑いをして、手のひらを顔に押しつける。彼には守るべきものが多すぎるし、彼はまだ、心が不安定にすぎた。
 出し抜けに、風は地を這うように、乾いた埃とともにやって来た。
 ノリスは身を縮めて、月明かりに照らされた国道の彼方を見つめる。
 この街ですら眠りについた今は、沿線に灯りなど一つもなく、車の通りもまばらなこの一本道は、どうしたらいいかわからずに、ぼんやりと白っぽい灰色の、細長い体をさらけ出していた。
 彼はまた、溜め息をついた。
 そろそろ、引き返そうと思う。まぶたが重たくなってきてどうしようもない。

 時計台の鐘がうねるように空気を震わせ、午前一時を告げた。
ノリスは重い腰を上げて、今来た道を引き返そうとしていた。
その時。
「食べ物を、ください・・・」
 真後ろから、かすれた、弱々しい声がする。
 彼が振り返ってみると、いつの間にか、みすぼらしいボロをまとった一匹の鼠が立っていた。
 街灯を背にして立っているその顔は、まるで死霊の様にひどくやつれている。
 彼は背中の毛の一本一本に、ぞくぞくと痺れが走っていくのを感じながら身構えた。呼吸はしゃっくりをした様に止まってしまった。
「助けて、ください・・・・」
 落ち窪んだ、焦点の合わない眼差しで、口だけが力なく動く。機械仕掛けの様な仕草。ノリスは声すら出せなかった。
 その鼠は、自分の右手をノリスの方へ差し出した。
「おね・・・が・・い・・・・・」
 その哀れな鼠の仕草は、さびついたブリキのおもちゃのように減速して、とうとう彼にもたれかかるように倒れ込んでしまった。
「お、おい、どうしたんだよ!」
 ノリスが支えた彼の体は、軽く、ぞっとするほど冷たかった。

 朝になった。
 その若者は、ローニャの家に引き取られる事になった。
 ノリスはそのやつれ果てた若者を見て、薄ら寒い気持ちを抑えるのに苦労した。
「こいつはどうするの?」
 ノリスは、ウナギの缶詰のベッドに横たえられている青年を指差して訊いた。
「もし目が覚めたら一緒に朝食を取るといいわ。それより、他の三人を起こしにいってくれないかしら。今は手が放せないの」
 スープをこしらえながら、おばさんは言った。
 ノリスは階段を上っていって、二つの部屋の扉を強くノックした。ノルテおじさんの部屋と、ミーサとサリィのいる部屋である。
二階には三つの部屋があって、家族には二匹で一つづつ部屋が与えられていた。ノルテおじさんとローニャおばさんの部屋。サリィと、姉のミーサの部屋。
そして、ノリスだけが個室だった。
もっとも、個室とは言っても、一番小さな部屋ではあったけれど。
 その部屋の中で彼は、誰に気兼ねする事もなく好きなことが出来たし、誰にも聞かれたくないような愚痴や憤りを好きなだけ頭の中であそばせて、自分の中にしまいこむことも出来た。
 しかしそれも、今日で終わってしまうのだなと、ノリスは後ろ髪が引かれる思いがした。
「朝だよ!!」
 各部屋を叩いて回ったあと、廊下の上でノリスは叫んで、さっさと階段を下りていった。
 テーブルの上では、ねずみのこぶし大のとうもろこしをすりつぶして作ったスープが、美味しそうに湯気を立てている。
 三匹は順々に階段を下りてきて、まるで団体行動でもするかの様に、そろって顔を洗いにいった。
 ノリスはもう椅子に腰掛けて、全員揃うのを今かと待ちわびている。
 結局、あのねずみは目を覚まさなかった。
「あら、席に着いた人から食べ始めていいのに」
 マッシュポテトを運んできたおばさんはそう言って、また台所へ戻っていった。

「新入りの人が来たのね」
 ミーサは、眠っているねずみを一瞥した。
「あんたよりハンサムじゃない」
「フん、そうかい」
 ノリスは二杯目のポテトを皿に盛りつけている。
「でもまあ、この家がにぎやかになるのに越した事はないだろう。サリィも新しいお兄ちゃんが出来て喜ぶよ」
 ノルテおじさんはパイプをくわえながら新聞を読んでいた。新聞の見出しは、その若いねずみの事だ。
「まったく、うちも有名になったもんだ」
「あなた、新聞にジャムがついていますよ」
「おお、こりゃ失敬」
 おじさんは新聞を拭いてたたんで、コーヒーカップを手に取った。
「ちぇっ、みんなひどい言いぐさだなあ。まるでおいらはただの厄介者みたいだ。あいつなんか来なけりゃ良かったのに」
 ノリスはポテトをほおばりながら肘をついてぼやいた。
「そんなこと言わないの。ただあの子はまだやってきたばかりで、みんなもどうしたらいいのか分からないから、少し、用心深くなっているのよ」
 おばさんは、そっと彼にささやく。
 料理を全て出し終えて、おばさんもようやく席に着いた。

 昼過ぎになって、新入りねずみはいきなり目を覚ました。
 ねぐらの上を、いつになく大きな車が通る音がしたかと思うと、そのねずみは飛び起きて、金切り声を上げたのだった。
「大変だ!
 また奴等がやってくる!!
 みんな地下に隠れろ!一つ残らず扉を閉めろ!
 見つからない様に息を殺すんだ!見つかったらおしまいだ!!
 大変だ!大変だ!
 また奴等がやってくる!また奴等が襲ってくる!
 僕達は殺される!奴等にみんな殺される!!
 逃げろ逃げろ!!」
 彼は家中を駆け回って、扉という扉をかたっぱしから閉め、全身の毛を逆立て、目をひん剥きながら、喉がかれるのもお構いなしに叫び続けた。
 そして急におとなしくなったかと思うと、今度は体を丸めておいおいと泣きじゃくり始める。サリィもすっかり怯えてしまって、母親に抱きついていっしょに泣いていた。
 おばさんはサリィをなだめた後、そのねずみのそばへ歩み寄り、そっと肩を抱こうとした。すると彼はおばさんの胸に飛びつき、身を固くしてぶるぶると震えはじめた。
「どうしたの?・・・・どうしたの。何も恐がることはないわ。大丈夫、誰も襲ってきやしないわよ。大丈夫。ほら、まわりをよく見回して・・・、本当に、怖いものなんて何もない。ここは安全な所。大丈夫、大丈夫・・・・・」
 涙でぐしょぐしょになった彼の顔を包み込むように抱き、ローニャおばさんは、毛が逆立った彼の背中を優しくなでさすった。
そして、ゆっくりと上体を揺さぶって、歌い始めた。

 ちいさな ちいさな背中には
 だれでも羽根をもっている・・・・
 だからもう泣かないで
 みんなで風と仲良くね・・・・・

 そうするうちに、真っ赤に充血して、怯えきっていた目はゆっくり閉じて、小刻みに震え、こわばっていた体は、空気が抜けた様に落ち着きを取り戻していく。
 サリィは近くで興味津々である。
 他の者は、二匹の周りをぐるりと囲み、なりゆきを見守っている。
 しばし息が止まったかと思うと、彼は再び目を開けた。
「ここ・・は・・・・?」
 曇った声。
「心配しないで。あなたのいる所は安全なところよ。誰もあなたを脅かしたりしない、本当に自由なところ・・・」
 一つ一つ丹念に、彼女は優しく言葉を落としていった。戸惑いながら、彼はそれを拾い上げていく。
 少しずつ、なにがしらの輝きを取り戻した様である。
「じ・・自由・・・。それじゃ、ここは天国なんだね・・・・」
「残念だけど違うわ。でも、ここは天国より、きっといいところよ」
 母親のような彼女の言葉に、若者は幼子のように、静かににっこりと笑った。
そして、再び目を閉じた・・・・。



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