東街のねずみたち
五、度胸試し
満月祭まであと七日。チートがこの家に来て五日になる。フィッグの襲撃は、あれ以来一度もない。
今朝、西のねぐらの一部が崩れているのを、近くの住民が発見した。
「このままでは、我々は生き埋めになってしまう」
周囲は、次第にそんな事を呟き始めていた。
「何だよ。こんな所に呼び出して」
ノリスとチートを、パイルとライバー、そしてその仲間達が取り囲んでいた。
ここは国道のそばの廃屋。
木壁の透き間から幾筋もの陽の光が差し込んで、ねずみ達の体に縞模様を作っていた。
時折、その縞模様が消えたかと思うと、そばの国道を路面電車が通過し、この古い木造建築は、その風圧と振動でギイギイと悲鳴を上げる。チートは、家屋がどこかできしむたびにきょろきょろと落ち着きなく、ノリスは彼の隣で腕を組みふてくされていた。
「ひとりじゃ怖くて、ふたりで来たか」
ひとり空き缶の上に腰掛けて、見下すように、パイルが言った。
途端に周囲から失笑が沸き上がる。
パイルはすっかり気を良くしていた。しゃべり方も抑揚が誇張されて、まるでどこかのいんちき独裁者の様。
「ノリス。ここにお前を呼んだのは他でもない。俺達のチームをやめるからには、それなりの資格が必要だ。そこで、俺とひと勝負してもらう事にする」
「何だよ。二度と顔を見せるんじゃねえとか言ってたのは、どこのどいつだよ」
「うるせえ。気が変わったんだ」
パイルはノリスをにらみつけた。
「まあいい。勝負はチキンレースだ。俺に勝てば、お前がチームから抜けるのを許してやる。もし負けたら、ねぐらから出ていってもらう。いいな」
「何を、偉そうに。バゾクがいなくなってから、お前何だかあいつそっくりになってきやがったぜ」
ノリスは唾を吐く様に言った。
「俺は奴より公平だぜ。お前にチャンスを与えたんだからな」
「ふうん、どうだか」
ノリスの疑いは晴れない。
ノリス達は周囲をパイルの仲間に囲まれて、まださんさんと日の照っている大通りに連行された。
路面電車は定期的に道のど真ん中を走っている。石畳の道はごつごつとしていてとても歩きづらかった。
「あの線路の上に立ってもらおう。レールの上で電車がやって来るまでじっとするんだ。たとえ車や人間共がお前を踏みつぶそうとしても、レールを外れたらその時は失格だ。お前が俺より電車を引きつけられれば、お前の勝ちだ。分かったか?」
路上は電車以外にもたくさんの車が流れていた。線路の上が安全だという保証はない。
それにパイルは、最高記録保持者でもあり、とても勝ち目はないように思えた。
「ヘヘヘ・・・・・・・、知ってるか?」
後ろから、笑いを含んだ声が聞こえる。
「俺達はちっぽけな生き物さ。あの電車にかすっただけで跳ね飛ばされて、スイカが潰れるみたいにバラバラになる。見物だぜ」
あえて聞こえるように呟かれたささやきが、ノリスの心を乱した。
「まずはノリスからだ」
審判役をかってでたライバーが線路のそばから高らかに宣言する。
ノリスはゆっくりと道路の中央へ歩いていった。他の面々は道路沿いのバス停留所からその様子を見守っている。
「電車がやって来るまであと一分だ。ただし時刻通りにいったならな」
ライバーは、距離を測る目印として、小石を等間隔に線路の上に置きながら、ノリスに告げる。
ノリスは側溝をまたぐように線路の上に飛び乗った。
「側溝に気をつけろよ。はまったら出るのには手間取るぜ」
ノリスはレールの側溝を見た。随分古くなったせいか、溝の中には無数の細いひびが走っている。溝は浅く、しゃがんでも頭が上にはみ出てしまう。ノリスは足に力を入れて、落ちないように気を付けた。
緊張した沈黙が彼らを取り囲んでいた。
パイルもチートも他の連中も、線路上の小さなノリスの様子を凝視している。
その彼がレールの上に立ってしばらくして、百メートル程先で電車が来るのを見張っている伝令のねずみが、こちらに向かって手を振った。電車が来たという合図だ。
ノリスの足元からゆっくりと左へカーブを描いて伸び、建物の陰に隠れていく線路から突然、巨大な路面電車が姿を現した。それは車体をすこし左にかしげながら、もやの中をかいくぐって向かってくる。
「来たぞ」
ライバーは、安全な所まで後ずさりした。
線路と車輪の、鉄と鉄が擦れ合う甲高い摩擦音が、線路をつたってノリスの体を貫いた。
凶暴なスピードで、その電車には彼の姿は分からない。
こちらに向かって来るその体は、みるみるうちに視界いっぱいに膨れ上がる。
ノリスは唾を飲み込み、息を止めて、小刻みに震える両足に力を入れた。
その車輪は、線路の上に置かれた小石をその恐るべき体重で粉々にしながら転がって来る。
一・・・、二・・・、三・・・、四・・・
ノリスは耳をすまして、その小石がつぶれる音を聞き分けていた。
どんどん激しくなる振動で、立っているのも難しい。
ノリスは両手をついて四つん這いになった。
彼は前を見た。
巨大な車輪が、彼の目の前にあった。
頭の中が真っ白になり、彼は跳んだ。
線路を飛び退いてから後の事は何も覚えていない。
振動と騒音が彼の体をもてあそび、自分が生きているのかさえ分からなかった。
彼がまともな感覚を取り戻したのは、審判のライバーに片を軽く叩かれてからだった。
「ノリスの記録は一メートル十センチ!」
ライバーが大声で叫んだ。
同時に、見物していたねずみ達の中から感嘆の声が上がる。結構やるなという感情の込もった声だった。
「あの恐がりのノリスが、あんなに粘るなんて・・・」
ノリスは立ち上がって、パイル達の待っている場所へ向かったが、よろよろと足がもつれそうになった。激しい緊張に、体中の力を吸い取られてしまったようだ。
チートが駆け寄って来て、ノリスの肩を持った。
「すごいよ。ノリス。みんな驚いてる」
「そ、そうかい・・・」
体の興奮が納まらず、ノリスの声は震えた。
「今度は俺の番だ。奴の記録なんて大した事はねえ。俺なら一メートル以内にしてやる」
パイルは自信たっぷりに言う。
だが、ノリスの思わぬ好記録に、見物していたねずみ達の感嘆がなかなか静まらず、パイルの言葉に余り反応しない。
それは、少なからず彼の自尊心を傷つけた。
そして、彼は大声で怒鳴りまくる。
「俺ならあいつの半分はいける!ここから見たって分かるくらいにはっきりと決着をつけてやろうじゃねえか!」
周囲はパイルが怒っているのに気付いて、慌てて我に返った。
「そ・・・そうとも!奴はもうねぐらから追い出されたも同然さ!」
「そうだ!そうだ!」
彼らはなりふり構わず、わざとらしい言葉でパイルを持ち上げた。
ノリスはその白々しさに思わずむせてしまい、
「ゴホッ!早く行けよ。電車が来るぜ」
ちくりと横やりを入れた。
パイルはノリスと同じ位置に立った。あのいまいましいちびすけと自分との差を見せつけてやる為にと、彼の自尊心がそう命令したのだ。
「心配するな、パイル。短めに記録してやるからさ」
ライバーがそう耳打ちしてきた。彼を安心させようとの配慮だったのだが。
今のパイルにとってその言葉は、彼の燃え上がる心に油を注ぐようなものでしかなく。
「黙れ、ライバー」
彼は突然ライバーの胸ぐらをつかみ、低い声で言う。
「いいか、そんな事をしてみろ。ただじゃおかねえぞ。おれはまともに勝負をしたいんだよ!それで勝たなきゃ、俺が奴より上だって証拠にはならねえだろ」
「た、確かにそうだな。言ってる事はよく分かるよ」
パイルは手を離した。
「それじゃ、そうしろ」
彼とは、こんな奴である。
「次の電車の到達予定時刻まで、あと二分!」
ライバーがそう高らかに宣告した。
夏の日差しは暑い。線路は熱で少しばかり曲がり、側溝は少し押し広げられていた。
熱は線路をつたって彼の足元にまで達し、それを少しでも冷やそうと、汗は足元をぬらしている。
彼は、少し用意を急ぎ過ぎたのを後悔した。あの時、頭に血が上っていて少し我を見失っていた事は、認めなければならなかった。
『なあに、いつものようにやればいいさ、いつものように・・・』
自分を落ち着かせる為、彼は頭の中で、そう連呼した。
ライバーを除く他のメンバーたちは、自分を凝視している。負ける事は許されない。彼は意地になっていた。
そう、意地だ。もっときれいに言うなら、誇りだ。リーダーの誇りだ。おれはリーダーの誇りに賭けて、必ず勝つ。おれはルンサのように、勝負を捨て、仲間を捨てたりはしない。おれはやつらを守るんだ。やつらがおれを守るように・・・・・。
・・・・・守る?
このおれが、あいつらを守る?
そんな事、今まで考えた事がなかった。
一番強いものが一番得をして当然だと思っていた。そして今までのおれは、その一番強いものとして群れに君臨してきたのだ。確かに、何もかもうまくいったし、思い通りに出来た。しかし、おれの命令を無理やり聞かせようとした時の、やつらの幻滅した表情は何だったのだろう。群れの誰かが俺の作った決まりに反して罰せられた時の、やつらの顔といったらなかった。昔は、もっとみんないきいきと楽しかった。無駄な決まり事など何もなく、俺が専制君主を気取っていなかったあの頃は・・・・・・。
『お前、だんだんバゾクの野郎に似てきたぜ』
・・・・・・。
ノリス、お前の言った事、案外当たってるかもしれねえな。
「来たぞ!パイル!!」
ライバーの叫び声で、パイルは再び我に返った。
目の焦点を合わせると、電車はもう数十メートル先で猛烈なうなり声を上げている。彼に残された時間は、あとわずかだった。
彼の足元は、流れ出た汗で濡れていた。ふんばりがきかなかった。鉄の痩せた車輪がレールをこする時の叫び声のような摩擦音と共に、レールは小刻みに震えている。
一・・・、二・・・、三・・・、四・・・
彼も、レールに置かれた小石が一つづつ踏み潰されていくのを数えていった。
電車が近付けば近付く程、レールの振動は大きくなっていく。パイルがノリスに勝つ為には、より大きな振動を耐えて踏みとどまらなければならないのだ。
だが、彼は気付かなかった。彼の体や足の裏から流れ出た汗は、レールの上に飛び散っていた機械油と混ざって、足場をバターを塗ったように滑りやすくしていたのだ。
そしてそれは、彼が飛び退こうと両足をふんばった瞬間、彼に悪さをした。
「アっ!!!!」
レールの上で、パイルは転んだ!
電車は間髪を入れず、その上を押し潰していく。
それを見ていたねずみたちは総立ちになった。
「パイル!!」
ノリスは叫んだ。
ライバーは両膝をついて小刻みに震えている。彼の視線はパイルのいた場所をさまよっていた。
彼には見えたのだ。パイルのいた所に、真っ赤な血がべっとりとこびりついているのが・・・。
ノリスの声は、彼の耳には届かない。
『まさか・・、そんな・・・・・。』
ついさっきまでのパイルの空元気が、ノリスには虚しく思えてきた。彼はとっさのうちに駆け出していた。
「おい!ライバー」
ノリスは彼の肩を軽くたたいた。
彼は、力なくその手を払いのける。
しばらく身動き出来なかった。
「あいつが・・・あいつが、こんな事になってしまうなんて・・・・」
ライバーは両手で顔を覆った。
「何て馬鹿な奴なんだ・・・。
こんな事でくたばっちゃあ・・・・」
彼は握り拳で地面を叩いた。二度、三度・・・・。
そして言葉を噛み砕くように歯をむき出し、続ける。
「あいつ、最近どうかしてたんだ。・・・何もかも、フィッグを追い払った、あの晩からさ。急にちやほやしてきた周囲の奴等に、狂わされちまったんだよ・・・・・・」
「ああ、その通りさ・・・・」
ノリスには他に何も言えない。
「ノリス」
ライバーは呟いた。
「お前たちに陰険な事をやってきたのは、お前が群れを抜け出したのが気にいらなかっただけじゃないんだぜ・・・。分かって欲しいんだ。あいつ、あの晩以来、何も手柄を上げられなくて、焦っていたんだ。だから、お前たちにこんな事ばかりしてきたのさ。どうかあいつを責めないでくれよ。あいつに何も出来なかった俺達が悪いんだ・・・・」
「もういいよ」
ノリスはやりきれなさにうつむいて、大きな溜め息をついた。
「俺達が間違っていた」
「約束は取り消しだ」
遠くから、声が近付いて来る。ノリスにはいまさらどうだっていい。
「分かったよ。しばらく何も言うなよ!」
「そりゃないぜ。おれは謝りたいんだ・・・」
聞き覚えのある声。ノリスは驚いて顔を上げた。
「!」
パイルだ。
彼は右手で尻尾を握り、左手をのどに押しやって、声色を変えて近付いてきたのだ。こんな時でも冗談を言う奴だったのかと、ノリスは少し呆れた。
右手に握られた尻尾は、先っぽが切り落とされていた。
切断面からは、どくどくと脈打っている血と肉と骨がのぞいている。ライバーが見た血は、ちぎれた尻尾の先っぽだったのだ。
「ノリス、お前の勝ちだ」
微かに笑う彼の顔からは、血の気が失せていた。
ノリスは何も言わず、パイルの顔を見つめた。
「おれは、どうかしてたよ・・・。おだてられて図に乗って、仲間達にも息苦しい思いばかりさせて、どうしようもない奴だぜ、まったくよ・・・・。」
そう言い終えて、膝から崩れ落ちるように倒れていく彼を、ライバーとノリスが支えた。
他のメンバーは、野次馬のようにうろたえるだけで何もしない。チートだけが手を貸してくれた。
「すまない・・な・・・」
パイルの目は宙をさまよっている。貧血で目が見えなくなったのだ。
「パイル」
「・・・・・」
耳も遠くなったのだろう。反応が鈍い。
「何だ・・・」
「この勝負、お前の勝ちだよ。零センチメートルなんて記録には、誰も勝てねえや」
ノリスは笑って右手を差し出した。パイルは、右手で力なく触れただけだった。
「・・・そうか。サンキュ・・・・」
パイルは少し笑って、そのまま両目を閉じた。
「チームは解散・・・だな」
そう言って、パイルは恥ずかしそうにまた笑った。
その顔は、重い荷物を片から降ろした時のような安らかな、ノリスの知っている昔の彼の顔だ。
噂を聞きつけ、ルンサがやって来たのは、夕方だった。
そして、一行はばらばらに、ひっそりとねぐらに戻っていた。
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