東街のねずみたち
六、明けない夜
ドアを開けて、ローニャおばさんが食事を持ってきた。
思わぬ来訪者に一家は大いに賑わっている。下の階ではミーサがおばさんと一緒に台所仕事に精を出し、ノルテおじさんとサリィは今から食べ物集めに出かける所である。
「とにかく食べて、元気をつけなくちゃ!」
「あ、はい・・」
おばさんの勢いに、さしものパイルもたじたじである。
彼はノリスのベッドに横たわり、ノリスとチートとルンサの三匹は椅子に腰掛けて彼のまわりを取り囲み、会話に花をさかせていた。
「これ、サリィ。どこへいくんだい・・・」
下の階で物音がする。そして階段を駆け上る足音が近付いてきて、サリィが部屋まではいってきた。
そこまでは良かったものの、パイルの視線に気付くと、あっという間にドアの蔭に隠れてしまう。そしてこちらの様子をいわくありげな目つきでうかがうのである。
「どうやら、君のファンが来たようだ」
ルンサがにんまりと笑う。ノリスとチートも、彼女に分からないように声を殺して笑った。
パイルの顔は瞬時にして真っ赤になり、毛先からは湯気が立ちのぼらんばかり。
ノリスはパイルをひじでつついて催促する。
彼はそれをうっとおしそうに払いのけた。
「わかってら!しつこいんだよおまえはいつもいつも・・・・」
「あなたが、パイル・・・、さん?」
「え?・・ああ、あっ。そうだよ」
「こっちへ・・来なさいよ」
彼女はちいさな手で、パイルを招き寄せる仕草をした。
それを見た他の三匹は好奇と驚きの入り交じった声を上げ、その大胆な行為にますます興奮。
「ほら、ご指名だぜ」
「うるさいっ!」
ノリスは彼の一撃をくらった。それでもくっくっと笑っている。
パイルはベッドから体を起こし、サリィのもとへ歩いていった。
二匹で部屋を出る時、サリィは残った三匹にあかんべーをしていった。
「用は何?」
サリィは上目遣いでもじもじしながら彼を見つめている。
「パイルさん、これあげる」
と、彼女はちっぽけなじゃらじゃらしたものを差し出した。
彼はそれを壊さないように、そうっと手の上に乗せる。
「あたしの宝物」
それは、小さな貝殻のイヤリング。
「しっかり持つのよ。それじゃ」
彼女はパイルの返事も待たずに、階段を下りていってしまった。
彼はひとり、微笑むと、その小さな宝物を壊れないように指で包み込んだ。
「初恋・・・か。いいな。気分はどうだい?」
ルンサが無邪気に笑う。
パイルは肩をひそめ、呟いた。
「ああ・・。最高」
それから彼は、運び込まれた食べ物をむさぼった。
今はとにかく、体力が欲しかった。
十二時の鐘が、熱帯夜の街を駆け巡る。
じわじわと、アスファルトからの熱が立ち昇ってくる。日が暮れて、ほんのわずかだけ冷えた空気は、街の吐き出す熱によって再び暖められ、寝苦しい夜を包み込む。
フィッグは廃屋のベランダに横たわっていた。
彼の目は二日も経たぬ内に完治し、あとにはねずみ達への憎しみだけが残った。
昼も夜もほとんど眠らず、その目は下界をじっと睨みつけている。
待っているのだ。
『やつ』を確実にしとめられる機会を。
『やつ』を捕らえ、その骨の一本までばらばらにする自分の姿を頭に思い描き、その中で彼の内にある憎しみや、ありとあらゆる暗い感情が溶けていくさまに、彼は興奮した。
そして、ついにやって来た。
この五日間、彼は作戦を練っていた。そして、それにうってつけの相手が、不用心にも現れたのだ。
運がいい・・・。
彼は、自分の幸運にほくそえんだ。
真っ青な顔をして、ノルテおじさんは家に駆け込んできた。手にはサリィの小さな靴を持っている。
「何て事だ・・。捕まった相手が、あろうことかフィッグだったなんて・・・・」
ルンサが叫んだ。
「全くついてないよ。だが、あの子はまだ無事だ。建物の隙間に逃げ込んで、幸い傷はない・・・」
ノルテおじさんは口惜しそうに言う。
「まったく私がいながら・・・」
「フィッグの事だ。きっとあの子が飢え死にするまでそこにいるつもりだぜ」
ノリスは悪態をついた。
「そんな事は考えちゃいけません。よけい悪い事を招き寄せるだけです。ともかくあの子が無事なのは良かったわ。あの子が無茶をしなければ、まだしばらくは無事でいられる。選択権はまだあの子の側にあるのだから、何かなす術はあるはずよ・・・」
おばさんの言葉も、どことなく自分に言い聞かせている様に見えた。
「私はハレキに知らせにいく!」
そう言うなり、ミーサは外へ飛び出して行った。
「・・・ハレキかい?あのじいさんが何をしてくれるっていうんだよ!」
パイルはベッドの上で吐き捨てるように言った。
「でも、何かいい考えがあるかもよ」
チートは反発する。
「僕をここへよこしたのもあの人だし」
「それとこれとは話が違う!」
「確かに、面と向かって勝負する事は、期待できないな・・・」
ルンサはつぶやく。
「ほら見ろ!」
「・・・だが、僕達をうまく指揮してくれるかもしれない」
「俺は嫌だね!誰かに命令されるのなんかまっぴらだ」
パイルはシーツをくしゃくしゃに丸めて毒気づいた。
「サリィを見殺しにしても?」
チートは追求した。パイルはうつむいた。
「それを言うな!!」
パイルは大声で叫んだ。
「俺の事はどうだっていい・・。俺だってあの子を何とかしたいんだ!」
パイルは立ち上がった。そして少しふらつきながらも部屋の隅まで歩いて行く。
「俺は、俺のやり方であの子を守ってやる」
振り返り、
それから彼は、行ってしまった。
「待て、パイル、まだ怪我が・・・」
ルンサの声は届かない。
不規則なリズムで階段を駆け降りて行く音が遠ざかり、部屋のものは皆口をつぐんでしまった。
「何てこった!このままじゃ犠牲者はひとりじゃなくなるぞ・・」
「まだゼロだよ。そして、しばらくはゼロだね」
チートは訂正した。
「おいらたちだけで何とか出来るなら、とっくのうちにそうしてるのに・・・」
ノリスは呻いた。
チートは溜め息をついた。
それは、重い空気だった。彼がここに来て初めて経験する、ここの現実だった。
サリィは、古い建物の排水パイプの中で座り込んでいた。
小さな体をより一層小さく丸めて、何とかその空間に納まっていた。パイプの曲がった部分が足場になっており、滑り落ちる事だけは防ぐことができた。
フィッグは絶えずパイプの中を覗き込んでは、力尽きたサリィが中から滑り落ちて来ないかと期待している。
彼は何度も、灰色に色あせたプラスティックのパイプを揺らしてみる。
サリィはその度に驚き、恐怖して、大声で泣き叫ぶのだった。フィッグにはその甲高い声がとても心地よかった。
フィッグが見つけた時、獲物は二匹いた。
一匹は成人した鼠で、そっちはどこかに逃した。彼は、幼い相手の方が好きだった。御しやすく、鳴き叫ぶ声がまた可愛らしい。
彼にとって、この前やられた目の事などもうどうでもよかったのだ。ただ、そのことで溜ったフラストレーションの発散の機会だけは逃したくはなかった。
声が止んで静かになると、またパイプを揺らす。ただそれの繰り返しだった。彼は、この子鼠がもっと自分を楽しませてくれる事だけを願っていた。
そして、待っていた。『やつ』がここへやってくるのを。
彼にはわかっていた。こうしていれば、『やつ』は必ずやって来る事が。
「畜生・・・。ひどいマネしやがって・・・・」
パイルは屋上から真下の光景を見て、呻いた。
さて、どうしたらいいものか。
衝動的にねぐらを飛び出してきた彼は、下で繰り広げられている光景を見ても、何をしたらいいのか見当がつかなかった。
何か使えるものはないか?
彼は視線をあちこちに向けた。限られた場所だけが照らされている今は、そんなものはそうそう見つかりそうにない。
ふと、屋上の真ん中に置かれた白いものに目がいく。
何年も前に使われなくなった、ぼろぼろの貯水タンクだ。
彼はその上によじ登り、中を覗いた。
蓋のないタンクの中は、ぬるぬるした苔にびっしりと覆われ、何年にもわたって溜められた雨水が、月の光を反射しながら満々と蓄えられている。
パイルはそれを見て、嬉しくなった。
いい考えがある。すばらしい名案が。
彼はポケットに右手を突っ込み、彼女のイヤリングの存在を確かめてから、大きく息をした。
さっきより気分は良くなっている。
ふと、通りの反対側から騒ぎ声がする。ノリス達の声だ。フィッグを挑発しているようだった。
フィッグは声のする方へいくらか歩いていったが、すぐにこちらへ戻ってきた。どうやら奴の狙いはあくまでサリィらしい。
彼らもそれに気付いたのだろうか。しばらくして騒ぎ声は消えた。
パイルは、彼らを呼ぼうと思った。
彼の考えを実行に移すには、彼らの力が必要になる。
しかし、声を出してこの場所を気付かれるのはまずい。
彼の計画を失敗にさせないためには、自ら彼らのいる場所まで行かねばならないようだ。
車の騒音に紛れながら、彼は通りを渡りきり、声のしたとおぼしき建物に近付いた。しかしそこには、上半分だけのペットボトルがこちら向きに置いてあるだけで、誰もいない。
「ノリス!・・ルンサ!・・・チート!・・・・・・どこにいるんだ!?いるなら何か言ってくれよ!」
ノリス達の騒ぎ声でこちらに来なかったのだ、俺が騒いでも気にしないだろう。あいつは・・・・。
「・・おい、今の声、聞いたか?」
ノリスの声だ。
「うん、聞こえた」
チートの声。
「多分、パイルだ。こちらに来させた方がいいな」
ルンサだ。声だけはするが、姿はどこにも見えない。
パイルは不安になって、叫んだ。
「おい!おまえらどこにいるんだよう!!」
笑い声が聞こえた。パイルはたまらなく不快だった。
腹いせに彼は、石を通りに向けて思いきり投げる。
石は数回バウンドして、向こう側の建物の壁にぶち当たった。
「・・・おい、パイル。聞こえるか?」
ルンサの声が聞こえてきた。
「ああ!!!」
彼はぶ然として返事した。すると、また小さな笑い声が聞こえてくる。
「笑った事は謝るよ。お前の反応がおもしろくてね・・。すまん」
「それで、俺に何が言いたいんだよ」
「こっちに来いよ。おれたちはそこからまっすぐ奥へ行った所にある金網の向こう側にいるからさ」
彼は話が終わらぬうちに駆け出していた。
「おい、聞こえたか?分かったら何か返事してくれ。もしもし、もしもし?」
ドスン、と、ノリスは何者かに突き飛ばされた。
パイルは、彼らに気付かれないように後ろから忍び込んできたので、ノリスやルンサ達は彼のおどかしに乗ってしまった。
「これで、あいこだな」
パイルは白い前歯を見せて笑った。
メンバーの中にはハレキもいた。彼らは、さっきパイルが見たのと同じペットボトルのそばに座って、建物の隙間からうっすらと見える、通りの様子を凝視していた。
「こんな所で、何してるんだ?」
ここでパイルは、先程自分の身に起きた不可解な出来事の正体を知ることになる。
それは一種の糸電話で、ペットボトルは拡声器の役目をしていた。これでフィッグの気を引き、その隙に別動隊をつくってサリィを助け出そうとしていたのだった。発案者は老ハレキである。
しかし彼が見てきた様に、フィッグはその手には乗らなかった。彼がそのことを彼らに話すと、彼らは少しばかり意気消沈した。
「やはりそうか・・。引っかかってくれれば儲け物だと思ったのだが・・・」
ハレキは咳払いをして、ゆっくりと腕を組んだ。
「新しい計略を、考えんとな」
「そのことなら、俺にいい考えがあるぜ」
パイルは進言した。
一行は、再びさっきのビルの屋上へやって来た。
パイルは、他のねずみ達に、貯水タンクの中を見せた。
「俺の作戦はこうだ。まず、誰かが排水口を降りて行ってサリィの所へいく。その後、このタンクの水をその排水口に注ぎ込むのさ。一気に流れ込んだ水は、下のパイプからすごい勢いで飛び出すだろう。その勢いを借りれば、フィッグを振り切ることが出来ると思うんだ」
パイルは、自分の頭の中で思い描いていた作戦をみんなに話した。
「誰かが、サリィを抱えて逃げる訳だな」
「ああ。で、その役は俺にやらせてもらえないかな」
パイルが名乗りを上げた。
「大丈夫なの?まだ尻尾の怪我が治っていないんじゃ・・・」
チートの心配をよそに、パイルは強く言い放った。
「俺じゃないと駄目なんだよ。あの子は俺を信じてるんだ」
パイルはそう言った後、ポケットからサリィにもらったイヤリングを取り出して見せた。
「自慢じゃないけど、あんなに褒められたのは、初めてなんだ」
他のみんなは黙ってしまった。
「俺はランド=スタークじゃないから、この街の連中をみんな守る事は出来ないけれど、せめてあの子ぐらいは・・・・」
パイルのその言葉に、ハレキは耳を動かした。
「それは違うぞ」
「ランド=スタークは、結局この街を守れなかったのじゃ。その証拠に、我々はいまだに地下で暮らしておるだろう」
「それじゃ長老、あの伝説と言うのは・・・」
ルンサが尋ねた。
「あの伝説は、街のみんなが作り上げた願望じゃよ。大猫フィッグに長い事苦しめられてきた街の鼠達の、いつかは太陽のもとで暮らしたいという願いが、ランド=スタークの伝説を作り上げた」
「じゃ、ランド=スタークはいなかったんですか?」
「いや、彼はちゃんといたよ。しかし、非力な鼠は非力のまま、伝説のように、フィッグと互角に戦う存在などではなかっただけのこと」
「そうか・・・」
「お前たちを見ていると、彼の若い頃を思い出してしまってな。・・・・それよりも、はやくパイルの練った作戦に取りかかるとしよう」
「いいな。サリィの所までいったら、ひもを強く引いて合図するんだぞ」
「分かってる。それよりも、すぐに水が出せるようにしておいてくれよな。フィッグに気付かれるよりも早く、何もかもやってしまわなきゃ意味がないぜ」
パイルの胸回りには、洗濯物をほどいて作ったひもがくくり付けられている。
そのひもをつかんで待つのは、ノリスの役目になった。
ハレキ、ルンサ、チートの三名は、タンクを壊す細工を施していた。
「ノリス、本当にすまねえな」
「何がだよ」
「いろいろと悪口言ったことさ」
「そんなの、御互い様だろ」
「まあな。俺も図に乗ってた。ランド=スタークの生まれ変わりだなんだとおだてられて」
「でも、まんざらでもないと思うぜ。おいらは」
「何がだよ」
「結構いい線いけてるんじゃないかって思うんだよ」
「それ、どういう意味だ?」
「早くはいれよ。サリィが待ってるんだから」
ノリスはパイルの頭を押さえ込んだ。
「じゃ、行ってくるわ」
ひょいと右手で会釈をして、パイルは足元を確認しながら、ゆっくりと、下へ降り始めた。
パイプの中は、自分の手足がどこにあるのかも分からないような、べっとりとした闇に囲まれている所。
下から上へと吹き抜けていく空気が、ゴオゴオと耳鳴りのようにうなり、彼の全身の毛をしびれさせた。
乾燥したほこりの固まりやたばこの吸い殻、ねばねばしたガムの固まりなどを足場にして、彼は下へ下へと降りて行く。
かび臭い匂いが彼の鼻をくすぐった。胸の悪くなるような嫌な匂いだ。こんな所に、サリィは閉じ込められていると思うと、パイルの気は焦り、知らず知らずのうちに、体は下へと急いだ。
その瞬間、ぬるぬるとした内壁に足を奪われて、バランスを崩した体は宙ぶらりんになる。
彼は気を取り直して、少し慎重になる。
その頃、屋上では、準備をすませたチート達が、街灯に照らされているフィッグの姿を見下ろしていた。
犬くらいの大きさもあるその大猫は、相変わらず排水パイプのそばに寝そべっている。眠ったのかどうかは分からないが、パイプを揺すって遊ぶ事はなくなった。
あの大猫に、この街のねずみ達は、余りにも長い間苦しめられてきた。
チートは、この街の重い現実を今、見下ろしているのだ。
「みんな、大変なんだな」
チートは、悔しさをかみしめるようにつぶやいた。
「僕も毎度毎度、この街を出る時、心配で仕方がないよ。僕がまた帰ってきた時には、街のみんながあいつによって殺されているんじゃないかってね」
同じように、ルンサもつぶやく。
もうすぐ夜も明けようとしていた。地平線のあたりがほのかに明るい。
「せめての幸いは、僕らのねぐらがどこにあるのか、やつには知られていないという事だ」
ルンサがそうつけ加えた。
「ルンサよ。そろそろ、ここに身を落ち着けるつもりは、ないのか?」
ハレキが聞いた。
「おぬしがここに留まってくれたら、街のみんなも心強かろうて」
ルンサはしばし考えた後、頭を掻いた。
「僕にはどうも、そういう事は性に合わないみたいで・・・。そりゃ、ここ程いい奴等がいる所は他にはないけれど、ずっと留まっていると、何だか次第に心苦しくなってきてしまうんです」
「そうか。まあ、お前さんはそういう生き方をする定めなのかもしれんな」
「ただ、やつだけは、僕も何とかしたい」
そう言ってルンサは、フィッグを見下ろした。
「あんなに大きくて恐ろしい猫は、他のどの街でも見た事がない。奴にねぐらの事が知られたら、あっという間に根絶やしにされるでしょう。みんなよく耐えていると思います」
「・・・・・だけど、あの猫はなんであんなに、ここのみんなを目の敵にするんだろう?」
チートは、誰に聞くともなく問いを発した。
すると、長老が答えた。
「チートよ。フィッグの頭部を良く見てみるがいい・・・」
長老が指差したその先にある、街灯に照らされたフィッグの姿を、チートは身を乗り出して凝視した。
フィッグの頭は、左目にえぐったような大きな傷痕があり、さらに左耳が半分ほど欠けている。
「あれは、かつて一匹のねずみによってつけられた傷なのじゃ」
「そのねずみの名は?」
ルンサも興味をかきたてられ、ハレキに尋ねた。
「それは、誰もが嫌というほど連呼しておろう。あの、ランド=スタークとかいう愚か者の事じゃよ。・・・・考えてもみよ。ねずみごときに手傷を負った猫が、いかに同輩たちの間で物笑いの種になるかをな」
二匹は、フィッグの姿を屋上から見下ろした。
「フィッグは、若くしてこの街のボスの座に収まり、得意の絶頂にあった。その彼にとってみれば、我々の存在など、取るに足らぬものでしかなかったはずじゃ。そんな時、今日にいたる彼の怨念を引き出すきっかけを生んだのが、偉大なるランド=スターク様という訳じゃよ。これを愚挙と言わずに何と言えばよかろう。我々ねずみ達は、猫の迫害に耐えながら、ただただおとなしくひっそりと生きていけばよかったのじゃ」
「そんな・・・。そんなにまで言わなくても・・・・・」
「わしは彼の事を悪く言い過ぎたかな?だが、過ちは認めなければならん。忘れ去ってはいかんのじゃ」
「でも、彼の存在は、僕達に希望をくれました。逃げてばかりの僕達にも、自分たちの運命を変える力があるんだという事を、彼の存在は示してくれているんじゃないですか?」
「夢や希望も結構な事じゃ。だが、それを抱えて歩く道は血塗られておる」
「でも、それが生きるという事じゃないんですか?」
「そうじゃ。だが我々には、罪悪感もある。だから、もっとより良い世界のありようを考えずにはいられないのだよ・・・・」
街の時計台が、引きずるような暗い音で時を知らせる。
三時だ。
彼らの夜は、まだ明けない。
サリィは、もう何時間も、耐え続けていた。
暗い、嫌な匂いに囲まれた狭い空間に丸まって、ひたすらフィッグの攻撃に耐えている。
ある時を境に、彼女は泣くのをやめた。
恐怖は次第に小さくなり、彼女は少し、落ち着きを取り戻した。
彼女が泣くのをやめてから、フィッグの執拗な攻撃の手がゆるんだように感じる。
今はじっと、両目を閉じて耐えていた。
その汚れた小さな体で、巨大なフィッグに対峙しているのだった。
五時の鐘が聞こえた。
さっきの鐘の音で目を覚ましたのか、久々にフィッグがパイプを激しく揺すった。
サリィは壁の金具にしっかりとしがみついて、その攻撃に耐える。
もう、随分と慣れた仕草になった。
少しの間を置いて、上から落ちてくる細かいホコリたちが、激しく彼女の体に降り注いできた。
「わわわわわっ!!」
そしてさらに、声が落ちてくる。
聞き覚えのある声。
その声の主は、彼女の頭上で大の字に、両手両足を目一杯、内壁に押しつけた。
それでも止まらず、爪を立て、鳥肌が立つようなきつい音をだしたので、サリィは両手で耳をふさいだ。
音が止んだ。
声の主を、彼女は知っている。
「パイルにいちゃん!」
「ハハ・・ハ・・・・、待った?」
ぼんやりとプラスティックの外壁を透過してくる日の光に、針ねずみのように全身の毛を逆立てたパイルの姿が照らされていた。
サリィは、頭の中が真っ白になって、パイルの胸元に飛びかかった。
ぎゅっとパイルの体を抱きしめ、黙ったまま彼の胸に顔を強く押しつけた。
彼女の体は冷たく、パイルは彼女の小さい背中をさすって、彼女を少しでも暖めようとした。
今まで溜っていた感情が、堰を切ったようにあふれ出したのか、彼女は静かに涙を流していた。しっかりと抱きついたまま。
静かに、彼女は泣き続けた。彼が動こうとすると、彼女の手は痛いくらいに、彼の背中の毛を握って、彼を静止しようとする。
「サリィ、俺達はまだ助かった訳じゃないんだぜ」
「でも・・、あたし、ずっと・・・ずっと待ってたんだから・・・・」
途切れ途切れ、しゃっくりまじりで話す彼女の頭をなでながら、軽く胸元に押しつけた。
そう、まだこれからなのだ。
パイルは背中に手を伸ばし、自分にくくり付けられたひもをほどくと、強く二回引っ張って、手を離した。
ノリス達への合図だ。
「チート、水を出せ!!」
ノリスはありったけの声で叫んだ。
まだ夜は明けてはいない。
それは、今や彼らにとって好都合だった。
フィッグに気付かれるのを少しでも遅らせる事が出来るなら、それだけ、パイル達が無事に逃げられる可能性は高くなるのだ。
「ようし、底を開けるぞ!」
ハレキが合図すると、チートとルンサは、貯水タンクの底から生えているホースの付け根を外した。
その途端、水圧に押し出された水が大砲のように飛び出し、屋上の床になみなみと注がれた。
そしてそれは、一つだけ蓋を外された排水口へと、巨大な渦を巻いて入っていく。
パイル達のいる、あの排水口へと。
「サリィ、しっかりつかまってろ!」
パイルの肩越しに、小さな頭が縦に動いた。
パイプの上から、ものすごい勢いで水の塊が押し寄せて来る。
パイルは思い出していた。彼がいつもやっていた、列車の前で、轢かれる寸前に飛び退くあの感じを、落ち着いて、落ち着いて・・・・。
今だ!!
パイルはその場から飛び降りた。
地上へ向けて滑り落ちるさなか、水の固まりは二匹を飲み込んでいった。
フィッグは、上が何だか騒々しいので、立ち上がって上を見た。
すると、大量の水が、ビルの屋上から降って来る。
それは、彼の体もぬらし、思わず彼はその場を飛び退いてしまった。
さっきまで彼がじゃれていたパイプは、まるで巨大な蛇がのたうつようにがたがたと震え、彼は身構えた。
嫌な音を立てて、排水口から濁った泥水が一気に吹き出してきた。
何年もかけてたまったゴミが、道いっぱいに吐き出された。そして、その中から猛烈な勢いで走り去る小さな黒い影があった。
パイルとサリィだ。
パイルは、足の遅いサリィを背中におぶって、ありったけの力を振り絞って走った。
サリィはうつむいて、パイルの背中にしっかりとしがみついている。
二匹とも、全身泥まみれだ。
フィッグは、二匹に気付き、すぐに追いかけてきた。
パイルは、道路を横断し、下水へと続く側溝へ飛び降りた。
地下の事なら、フィッグよりも知っているから、有利に立ち回れると思ったのだ。
彼らに続いて、フィッグも側溝へ降りてくる。
だが、側溝の幅は狭く、フィッグは思うように体を前に進めることが出来ず、一時は狭まっていた二匹との距離も、少しずつ開いていく。
不意に、フィッグの目の前から、二匹の姿が消えてしまった。
慌ててかれは立ち止まり、奥の暗がりを覗き込んだ。
そこには、深い、大きな水路が横たわっていて、鼻を突く匂いが煙のようにたちのぼってくる。
下水の水が、底のほうをゆったりと流れていた。二匹は、そこへ飛び込んでいったのだ。
フィッグはしばらくその場で、逃がした獲物をなごり惜しそうに捜していた。
それでも見つからず、彼は諦めて立ち去る他になかった。
フィッグが側溝からはい出してきて、街の中心へと歩み去っていくのは、ビルの屋上から下界を見下ろすノリス達の目にも、はっきりと分かった。
フィッグの口に、何もくわえられていないという事は、彼らの作戦の成功を意味していた。
「やったあ!パイルはうまくやったみたいだぜ」
ノリスは手をたたいて喜んだ。
他の者も、互いに手をたたき合って祝福した。
ハレキ達が、パイルとサリィの事を、ねぐらにいるローニャおばさん達に知らせると、彼女は喜びのあまり、近くにいる家族のみんなに抱きついて離れなかった。みんな、寝ずにサリィの帰りを待っていたのだった。
早速おばさんは、帰ってきたサリィや助けてくれたみんなの為に、腕によりをかけてパーティーのごちそう作りに取りかかった。
長老のハレキだけは、そのパーティーを辞退して、自分のねぐらへと戻っていってしまった。
パイルとサリィは、朝の六時を過ぎた頃、ひょっこりと戻ってきた。
下水で汚れた体と、汚れたサリィの片方の靴を、街の中央の噴水できれいに洗ってきたのだった。
昨日からまともなものを食べていなかった家族のみんなは、ローニャおばさんの用意した豪勢な朝食を食べ、各々の部屋に戻って、疲れた体を休めた。
ようやく、平和なゆったりとした時間が戻ってきた。
穏やかな朝が、帰ってきたのだった。
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