東街のねずみたち

     一〇、祭りの日


 ビルとビルの谷間にできた、余りにも奇形な形ゆえに開発の手が回らなかった空き地の、陽の当たらない茂みの中に、フィッグのねぐらはある。
 その土地は、ごみごみした街の中にぽかんと開いた穴のようで、街の人々が投げ捨てた空き瓶やビニールや、化石燃料のポリエステルの容器などが、磁石で吸い寄せられるように集まってきていた。
 街の誰もが目を背けたがるがゆえに、彼にとってはとても居心地のいい場所だった。
 湿った、赤錆だらけのドラム缶の中にうずくまっている今の彼には、どうしても忘れられない、ある出来事があった。
 彼は、この街のねずみ達を憎んでいる。他の猫達のように、余興でねずみ達を捕らえるなどという事は決してない。
彼の左目は、大きく傷をつけられたうえに膿がたまり、今ではほとんど視力がない。
それは、何年も昔に、とあるねずみによってつけられた。
ランド=スターク・・・。今でも、そのねずみの姿ははっきりと覚えている。黄色い襟巻きを首に巻いた、挑戦的な眼差しの、ただのねずみだ。
だが、そいつは彼を恐れなかった。野良犬でさえも目をそむける彼の覇気も、そのねずみの前では手品のように消え失せてしまう。雲のようにつかみ所のないそいつに、彼は生まれて初めて動揺した。
 かつて、彼がこの街の猫のボスだった。群れをつくる事のない猫達の間でも、彼の巨体と威厳には、誰もが敬意を払ってくれた。もっとも、彼にそうしない猫達を片っ端から痛めつけた結果なのだが。
 その頃の彼はねずみ達を見下していた。初めはほんの余興で、気が向いた時に、退屈しのぎで狩りをしていた。
 だが、ある時彼は、その見下していた者によって、あのランド=スタークによってひどく傷つけられてしまう。それが、左目の傷だった。
 それからの彼は、ねずみに負けた腰ぬけと他の猫達からも笑われ、消える事のない傷は、その過去をいつまでも風化させなかった。
 彼はその屈辱を、いつまでも飲み込めなかった。事実を認めることが出来なかった。だから、失われた威厳を取り戻す為には、ねずみ達をより激しく駆逐しなければならない。彼はそう考えた。そうすれば、他の誰も、文句は言えまい。と。
 それが、元々あわれみなどを持たなかった彼の心に、復讐の炎を点すきっかけとなったのだ。
 だが、ねずみ達はいくら殺しても、その旺盛な繁殖力でたちまち勢力を取り戻し、彼の体は少しずつ老いていく。彼らの報復によって、さらにつけられた無数の傷と共に、そのことが彼をなおさら苛立たせた。
 しかも、彼らのねぐらの場所が未だに分からず、それが復讐の完遂を阻んでいた。
 そんな彼に、今朝、一つの知らせが舞い込んできた。
 それは、ランド=スタークに会いたければ、時計台の下へ、今夜来いという知らせだ。
 知らせの主は、眼鏡をかけたねずみで、彼のねぐらをぐるりと囲む塀の上から、恐怖に震えた声で叫んできた。
 ランド=スターク・・・。
 その名前を聞いただけで、彼の心は燃え上がり、背中の毛が逆立って来る。どうやら、長い間ねずみどもを脅し続けた甲斐もあって、とうとう出て来る気になったらしい。
 待ちに待った復讐の時が来たのだ・・・。

建物と建物の隙間の暗がりを、二つの小さな影が縫うように走り去っていく。
「よくやったぞ新入り。さすがにお頭の親衛隊に志願しただけのことはあるな」
「そりゃどうも」
「これからは、あっしらは兄弟も同然、堅苦しい事は無しだ。あっしのことも呼び捨てにしてくんな」
小さいほうの一匹が、塀の段差を軽々とよじ登り、もう一匹に手を差し出し、引き上げる。
「ありがとよ」
引き上げられた大きいほうは、体を叩いてほこりを落とした。
「それにしてもなぜ、統領はこんな命令をするんだろう。ランド=スタークなんてどこにもいやしないのに」
大きいほうは小さいほうを追い越して、塀の上を駆け出した。
「それは考えないこったな。お頭には、あっしたちの想像もつかないくらい深い考えがあるのさ。あっしらはただ、おかしらの手足になって動き回ればいいのよ。それで万事、うまくいくさね」

フィッグに襲われた一件があった後、サリィはパイルにまとわりついていて離れようとしなかった。パイルと一緒にいる時のサリィの顔と言ったら、満面の笑顔を浮かべて、瞳を輝かせている。
パイルは、そんな彼女の事を内心照れ臭く思いながら、追い払う訳にも行かず、しょっちゅう頭をかきむしりながら、ねぐらをあっちこっちへと歩き回っている。
「ちょっとあんたね、あたいのパイルにつきまとわないでよ。あんたはまだちっちゃいんだから、他の相手を捜したらどうなの?」
リオは、サリィのしつこさに少々腹に据えかねている様子だ。
「おねいちゃんは、パイルさんと、どんな関係なのよ?」
「あたいとパイルはねえ、あんたが生まれる前からの仲なのよ。あんたのつけいる隙なんかないの。だから、気安くパイルさんなんて呼ばないでくれる?」
「でも、あたし決めたんだもん。パイルさんのお嫁さんになるって決めたんだもん」
「おお・・お嫁さん・・・・・」
パイルはドキッとした。
リオはがっくりと肩を落とし、溜め息をついた。
「何とまあ、思い込みの激しい子だこと・・・。まったく、パイル!あんたがそうやってのらりくらりしてるのが悪いのよ!一言この子に言ってやれば、こんな面倒な事にならなくてすんだのに」
「んなこと言ったって。俺の良心がとがめるからさぁ・・・・」
「へえ〜。あんたにそんなものがあったの、初めて知ったわ」
「この子にここで泣かれてもらっちゃ困るんだよ。みんなに見られて、あらぬ噂をたてられてみろよ」
「甘い甘い。そんなんだから、あの子をますますつけあがらせるんだわ。あの子はねえ、それを利用してあんたに迫ってるのよ。だから一言言ってやりなさいよ」
「でもまあ、お遊戯くらいなら、いいだろ?」
「嫌よ。あたいは嫌だからね」
「ひょっとして、お前、焼いてんのか?」
 リオは一瞬、きょとんとした。
「そ、そんなんじゃ、ないけど・・・。あの子がいると、あたいが面白くないのよ!」
「いいじゃねえか。あの子だって怖い思いしてきたんだし、いつまでも怯えているよりは」
「それも、そうだけど・・・」
ふたりが見ている前で、サリィはコンクリートの上でけんけん遊びをしている。小石を前に投げ、そこまでうまく飛べると、生えはじめの前歯を見せてパイルに笑いかけてくるのだった。
「まあ、今日ばかりは、許してやるか・・・・」
リオは前髪をまくり上げて、仕方なさそうにつぶやいた。

ねぐらの入口から、二匹のねずみが入ってくる。
一匹は図体が大きく、パイルたちがいるところからでも、一目でグリソムだと分かる。
だがもう一匹、グリソムと親しげに話しているねずみの姿は暗がりに没していて、パイルには誰だかわからなかった。
二匹はこちらのことを気にとめるでもなく、近付いてくる。
天井から差し込んでくる光の筋に二匹の体が触れて、初めてパイルはもう一匹のねずみが誰なのかを知る。パイルの眼は鋭くなった。
顔にかけた眼鏡は、忘れもしない。
ライバーだ。
しばしライバーはこちらに気付かずに、グリソムと話しながら歩いてきたが、パイルのそばで遊んでいるサリィの声に、こちらに目をやってきた。
その瞬間、パイルと目が合う。
ライバーは少しおどおどした。
パイルはにやりと笑って、口を開いた。
「よう、ライバー」
パイルは右手を上げて、挨拶する。
ライバーは愛想笑いを浮かべて、会釈した。
そのライバーの肩を叩き、グリソムは
「おい。あいつは誰だ?」
と、小声でライバーに尋ねた。
「僕の友達さ。少し話してもいいだろう?」
「いいが、手短にしてくれよ」
ライバーはパイルに背を向け、グリソムと相談している。
パイルは少しむっとした。

「元気にしてたか?」
「ああ・・・。そちらこそ、どうだい?」
「ま、のんべんだらりとしてら」
「そうかい。何か、新しいことはしないのかい?」
「そのうち、な」
「ライバー。あんた、バゾクの集まりに入ったんですってね」
リオは腰に手を当て、ライバーに訊いた。
「ああ。そうさ」
「パイルはね、みんなに独り立ちしてもらいたくて、チームを解散させたのに、それじゃ意味ないじゃん」
「そんなのは、無責任としか思えないよ。こっちの気も知らないで、勝手にそんなことをされたんじゃ」
「じゃあ、どうしてもらいたかったんだよ。俺にあのまま、ランド=スターク気取りでいて欲しかったのか?」
「そんなのじゃなくて、リーダーはちゃんとリーダーとしての責任を持って、チームのことを考えて欲しかったって思うのさ」
「ふん、そうかよ」
パイルはだんだん頭にきて、語気も次第に強まっていく。
「群れの中で矢面にも立とうとしないやつに、そんなことを言われる筋合いはないね」
その言葉に、ライバーは一息ついて肩を盛り上げ、眼鏡を取ってパイルをにらめつけた。
「それじゃ、言わせてもらおう。あの時、一体誰のおかげで、あんなにふんぞり返っていられたんだい?まさか、自分ひとりの力でなんて思っていないかい?それとも、僕らが無償の奉仕をあんたに捧げるほどお人好しだとでも思っていたのかい?まったくおめでたいことだ。今のあんたを気にかけてくれる奴が、どれだけいる?しょせん、ひとりでいればそんなものなんだ。あんたでもね」
「何だと?」
「この世は強いものが勝つし、勝ったものが正しくなる。だからみんな、群れを作るんだ。自然なことだよ」
「なるほど。それじゃ、お前が俺に叩きのめされても、文句はないよな?」
そう言うが早いか、パイルは飛びかかり、ライバーを押し倒した。
ぎらぎらした眼光でライバーをにらめつけるパイルのこぶしが振り上げられた瞬間、彼は何者かに強い力で突き飛ばされ、後ろ向きに転がっていった。
リオとサリィに抱き起こされたライバーの前に、大きな影が立ちはだかった。
「お前のような小僧に、うちの大事なメンバーを傷つけられるわけにはいかねえ。文句があるなら、ライバーの代わりに、あっしが相手してやる」
熊鼠のグリソムが、腕を組んでこっちをにらめつけている。
「なるほどな。バゾクの手下になっちまったって事か・・・・」
パイルは、グリソムの体越しに、ライバーに話しかけた。
体についた砂を払って、うつむいたまま、ライバーはつぶやく。
「そういう事さ・・・・。だから、お前とも、もうお別れだ」
「パイルぅ、やめなよ。こんな連中とかかわるのは」
リオが横から口をはさむ。
「ああ、そうしてやらあ・・・・」
パイルは立ち上がった。
グリソムは腕組をしたまま、パイルをじっと見下ろしている。
「まだなンか用?」
パイルは首を持ち上げて、背の高いグリソムをにらめ付けた。
「もういいよ。グリソム」
背後からの声に、グリソムは腕を解いた。
「命拾いしたな、小僧」
グリソムはにやついた。
大きな手で頬を軽く叩かれ、パイルは眉をしかめた。
二匹が並んでねぐらの奥へ歩み去っていく姿を眺めながら、パイルは、ライバーの言ったことを噛み締めた。
そして、呼吸が収まるまで、両手を強く握り締めて立ち尽くしていた。
「たしかに、お前の言う通りかもしれないがよ。それじゃ、幸せはどこにあるんだよ?勝とうが正しかろうが、それに何の意味があるんだよ・・・・」
 パイルは、ねぐらの天井を見上げながら、ぼそりと呟いた。

ねずみ達の、祭に向けた準備は着々と進んでいた。
会場になるオベリスクの広場の石畳では、ねずみ達の張りつけた銀紙が、夕日を跳ね返してキラキラと光っている。
それは、満月祭の時に、街灯の明かりを反射させて、広場を幻想的に彩るためのものだった。
街を行く人々は、その輝きを何だろうと思って、時々振り返ったりしながら通り過ぎていく。人間達は、仕事が終わって家路についている最中で、道路にはおびただしい数の車が、街の外を向いて押し合いへしあいしていた。
ノリスも、銀紙を貼る仕事がようやく終わり、街行く人々を眺めながら、一休みしている所だ。
彼は、広場のかたわらに建つ雑居ビルの二階の窓枠に腰掛け、両足をぶらぶらさせながら、何だか落ち着かない様子で、誰かを待っている。
このビルの、彼の座っている窓枠の外側には、ねずみが三匹並んで歩けるくらいの出っぱりが、全ての階ごとに作ってあって、ねずみ達はそこを『歩道』と呼んでいた。
祭りの夜には全ての階の『歩道』がねずみ達で埋めつくされ、広場の真ん中で繰り広げられる踊りや演奏を眺めるのである。
その『歩道』を、ミーサが歩いてきた。
そして、ノリスの右側に座る。
「早かったのね。ノリスは」
「まあね。おいらはきびきびしてるから」
「サリィは?」
「パイルが面倒見てるよ。どうもあの子は、おいらよりパイルの方が気にいったみたいだから」
「ふられたって、思ってない?」
「まさか!」
彼女はくすくす笑った。
「踊りの練習はどうだった?」
ノリスは尋ねた。
「ぼちぼち、かな。あたしはリオみたいにうまく踊れないけど」
「でも、衣装は悪くないぜ」
ノリスは、ミーサの来ている白いドレスに目をやった。
「そう。これはお母さんが作ってくれたのよ。月明かりに照らされれば、ほの青く見えるんですって」
「へええ・・いいな」
ノリスは左の窓枠に寄りかかって、感慨深げにつぶやいた。
「お母さん、か・・・・」
しばらく、二人とも黙ってしまった。
「・・・・ノリスだって、もっと家族みたいに甘えたっていいのに。そっちの方がみんなも遠慮しなくてすむわ」
「でもやっぱり、おいらには出来ないよ。おいらはよそのもらわれっ子で、血のつながった家族じゃないんだ。おばさんは優しくしてくれるけど、その度に、おいらには罪悪感みたいなものがこみあげてきちまう。特に、チートの奴がやって来てからはね・・・」
「・・・それで、どうするつもりなの?」
「祭りが終わって、フィッグの事も片がついたら、おいらは家を出ていこうと思うんだ」
「そう・・・・」
車が一台通り過ぎ、二匹の間には沈黙が生まれた。
「みんな、寂しがるわね・・・」
「そんな事ないさ。もう会えないって訳じゃないから」



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